与えられたテキストは詩編84章2-13節です。「いかに幸いなことでしょう」という言葉が、5,6,13節に出てきます。今回は「いかに幸いなことでしょう」について考えてみたいと思います。2,3節に「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」とあります。この「慕う」は、元来は男女の間で使う言葉で「愛する者に心引かれる、憧れる、情熱をもって愛する」という意味です。「わたしの魂は絶え入りそうです」の「絶え入る」は、「卒倒する、失神する、気絶する」という意味です。意訳すると、「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。主の庭に憧れて、わたしの魂は気絶しそうです。」となります。
3節bに「命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます」とあります。「身も心も」は「全存在」という意味で、「叫ぶ」は「大声で叫ぶ、泣く」という意味です。意訳すると、「わたしは全存在をもって命の神に向かって大声で泣き叫びます」となります。
4,5節に「万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。」とあります。この「賛美する」は、ヘブル語で「カスタ」と言って、3節の「慕う」と同じ言葉で、「男女間の愛、心惹かれる愛、憧れる」を意味します。意訳すると、「万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたに心惹かれ憧れ、熱愛することができるなら。」となります。
マルコ福音書10章に盲人バルティマイの物語が記されています。盲人のバルティマイが道端に座っていると、どこからか、「ナザレのイエスだ」という声が聞こえてきました。すると、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と、大声で叫び始めました。周りにいた者が「喧しい」と、叱りつけ、黙らせようとしましたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び続けます。イエスは弟子たちに「あの男を呼んできなさい」と命じました。弟子たちがバルティマイに「安心しなさい。お呼びだ。」と言います。すると、バルティマイは上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来ました。イエスはバルティマイに「何をして欲しいのか」と言われました。バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエスは「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。すると、バルティマイは直ぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従ったといいます。このバルティマイの「あなたの信仰があなたを救った」という言葉がキーワードです。言い換えれば、全存在をかけて神に憧れ、神を慕い、心をときめかす人は幸いであるとなります。
2節に「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう」とあります。「愛される」は、口語訳では「麗しい」となっています。ヘブル語で「ドード」と言い、「親しみのある、親切な、好意的な」という意味です。言い換えれば、神のいるところは、愛され、肯定され、受け入れられ、自由に、自分が自分らしくいることができるとなります。
5節の「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、」とあります。「あなたの家に住む」は「神と共にいる」という意味です。ヤーウェの神がモーセに現れとき、「わたしは必ずあなたと共にいる神である」と自らを明らかにされました。ヤーウェの神はあなた共にいる神です。ヤーウェの神はあなたを受け入れ、あなたを絶対肯定される神です。あなたに生きる意味と目的を与え、あなたの居場所が与える神です。言い換えれば、「いかに幸いなことでしょう。生きる意味と目的が与えられ、居場所が与えられた人は」となります。
6節に「いかにさいわいなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。」とあります。イスラエルの人々はエルサレムへ巡礼の旅に出ます。巡礼は途中でさまざまな困難、試練に出会います。巡礼の旅には勇気と信仰が欠かせません。「あなたによって勇気を出し」の「よって」は、ヘブル語で「ワウ」という前置詞で「から、中に」という意味です。つまり、信仰と勇気とは「神から出る、神の中にある」というのです。その神から、神の中の真理を知るが信仰の本質であるというのです。つまり、信仰の真理を知る人は幸いであるというのです。
コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7節に「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大か力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない」とあります。わたしたち自身は土の器に過ぎないが、その中に宝、神の力を納めているというのです。わたしたちは不条理な人生の試練と苦難に出合いますが、それらの試練と苦難に生き抜く力、打ち克つ力を神から与えられているというのです。柏木忠夫先生は「自分の才能や能力ではなく、神を信じ信頼することから与えられる力を人生の実力と言い、人生の実力を持つ者は幸いである」といいます。
6節に「いかにさいわいなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は」とあります。この「広い道」とは、ヨハネ福音書14章6節の「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とありますように、神のもとにわたしたちを導いてくれる道のことです。
フィリピの信徒への手紙3章13節に「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」とあります。この「目標」は、ギリシャ語で「テロス」と言い、「終わり、目的」という意味です。パウロは神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るためにという目的を目指して走っています。つまり、永遠の求道者です。どんな優秀なマラソン・ランナーでも、テロス・終わり・目的がなければ走れないと言われます。目的、目標がなければ走る力は生まれない、走っても途中で挫折します。人生も、上へ召して、お与えになる賞を得る、つまり、終末的な目的と目標がなければ、人生の不条理に耐え、生きていくことはできないと言われます。パウロは神の賞を求めて生きる人は幸いであると言います。詩人は、「いかにさいわいなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。」と言っています。御言葉を受け入れ信じ、委ねて生きていきたいと思います。