イザヤ書40章はバビロン捕囚が終結し、イスラエルの人々が故郷のエルサレムに帰還が預言され、開放の救いが語られていると言われています。6、7,8節に「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う,なん何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」とあります。この「肉なる者」はヘブル語で「バサール」と言い、「弱い、病める、回復しがたい、癒しがたい」などの動詞からなった名詞で、「弱い人、はかない人、虚しい人」という意味です。意訳すると、「弱い人は、また、虚しい人は皆草に等しい。」となります。
詩編90編9-12節には「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。人生の年月は70年ほどのものです。健やかな人が八十年をかぞえても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」とあります。この「人生」も「バサール」で、イザヤ40章6節の「肉なる者」と同じ言葉です。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。」や、詩編90編9節の「人生はため息のように消えうせます。人生の年月は70年ほどのものです。健やかな人が八十年をかぞえても、得るところは労苦と災いにすぎません。」は、余りにも厭世的、悲観的、消極的な人生観や人間観で、聖書本来の思想ではないのではないかと思います。
イスラエルは紀元前8世紀にアッシリア捕囚を、紀元前6世紀にバビロン捕囚を経験し、国家は滅亡し、イスラエルの人々は捕囚でアッシリアに、バビロンに連行されるという挫折を経験しました。その滅亡と捕囚はイスラエルに異文化と思想、信仰に接触経験をもたらしました。その経験が厭世的な人間観や人生観を生み出したのではないかと思われます。アッシリアやバビロニアの文化や信仰には、聖書本来の肯定的で、積極的、楽天的な人生観はないと言われます。また、深刻なニヒル、絶望、虚無を乗り越える信仰と力はないと思います。
室町時代に「心敬」という僧侶がいました。心敬の言葉に「常に飛花落葉を見ても、草木の露をながめても、この世の夢まぼろしの心を思いとり、ふるまいやさしく、幽玄に心をとめよ」という言葉があります。「この世の夢まぼろしの心を思いとり」とは、その事実をしかと見つめ、悟りを得るという意味です。「ふるまいやさしく」は、心を開いてものごとをながめ、心に艶をもつことを意味します。「幽玄に心をとめる」は、心に艶、美しく光るものをもつことです。つまり、花が散り、葉が落ちるように、人間も衰え、滅びゆく。この世は、所詮諸行無常、栄華盛衰であるから、せめて生きている間は、艶を持って生きるという教えです。心敬の教えは素晴らしい教えで、学ぶべきものが多くあると思います。しかし、いわゆる諸行無常、栄華盛衰という死と滅びを前提にした教えですから、その核心は諦念と悟りです。つまり、人間にとって最大の課題である虚無・ニヒル、絶望を乗り越え、死を超える信仰の力を生み出すことはできないのではないかと思います。
イザヤ書40章8節に「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」とあります。「草は枯れ、花はしぼむが」の「が」は、ヒブル語では「ワウ・w」という一字で、接続詞です。「しかし、にも拘わらず、ところが」という意味です。40章30節には「若者も倦み疲れ、勇士も躓き倒れようが、主に望みをおく人は、新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」とあります。ここにも「ワウ・w、が、しかし、にも拘らず」が用いられています。意訳すると、「若者も倦み疲れ、勇士も躓き倒れるが、ところが、しかし、にも拘らず、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」となります。
8節に「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。この「立つ」はヘブル語で「クワム」と言い、「横になっている状態から立ち上がる、倒れた者が起き上がる、死から復活する」などの意味があります。また、「立つ」を自動詞でなく、他動詞と理解し、「立ち上がらせる、復活させる」と解釈できます。意訳すると、イスラエルの人々はバビロンの捕囚で実存的に一度倒れ死にました。が、しかし、ところが、神はイスラエルの人々を再び立ち上がらせ、故郷のエルサレムに帰還させましたとなります。イスラエルの人々をバビロン捕囚から帰還させたのは「神の言葉」であるというのです。「神の言葉」は「ダーバール」と言い、「言う、語る」という意味です。しかし、単なる「言う、語る」ではなく、「出来事を起こす、約束を実現する」という意味があります。つまり、神の言葉に出会うと、出会った者は新しく生まれ変えられるというのです。言い換えれば、絶望している者が神の希望に生きる者に変えられる。それが神の言葉です。イザヤ40章29節に「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」とあります。力を与えるのが「神の言葉」です。マタイ福音書4章4節に「イエスはお答えになった。『人はパンのみで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉・ダーバールで生きる。』と書いてある」とあります。コリントの信徒への手紙Ⅰ1章18節に「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とあります。バビロン捕囚で徹底的に打ちのめされ、生きている意味を失い、虚無と孤立に陥った人々を、再び立ち上がらせ、生き返らせ、エルサレムに向かわせたのは「神の言葉、神の言葉は力」です。
水野源三さんに、「あの日、あの時に、戸の外に立ちたもう主イエス様の御声を聴かなかったら、戸を開けなかったら、お迎えしなかったら、わたしは今どうなったか。悲しみにうちかって、御救いの喜びを知らなかった。」という詩があります。源三さんは、小学校4年の時に重い病気をされ、それがもとで口を利くことも、体を動かすこともできなくなり、寝たっきりの生涯をおくりました。ある日、信州の坂城教会の宮尾邦隆牧師が源三さんを訪ね、神の言葉を伝えました。源三さんは神の言葉に出会い、受け入れました。すると、水野さんの心が変わったのです。寝たっきりの人生に絶望していた源三さんが生まれ変えられたのです。人が神の言葉に出遭い、受け入れると、180度変えられるのです。「立つ」は「死から復活する」と言う意味があります。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章54節に「死は勝利に呑み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪である。罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」」とあります。神の言葉には、虚無と絶望を克服し、勝利を得る力があります。神の言葉には倒れた人を再び、立ち上がらせられる力と神の希望があります。その信仰的事実を信じて、歩んでいきたいと思います。