紀元六世紀に起こったバビロ捕囚は新バビロニアのユダ王国を侵略から始まりました。ロシアのウクライナ侵略で始まった戦争は、全世界の祈りも叶わず終戦しません。ロシア国内でも平和を願う人々が弾圧され拘束されています。イザヤ書4章4節に「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」とあります。捕囚時代の預言者イザヤの平和の祈りです。捕囚の人々が帰還できたのは60年後、紀元前367年です。預言者イザヤの祈りが叶えられるには60年かかりました。
今日与えられたテキストは創世記32章23節―33章11節です。10節に「ヤコブは言った。『いいえ、もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。』」とあります。「わたしには」と言っているのは「ヤコブ」です。「兄上」は「エサウ」です。20年前ヤコブはエサウを騙し、兄エサウの長子の特権を奪い取る事件を起こしました。エソウはヤコブに長子の特権を略奪されために激しく怒り、ヤコブを殺害しようとしました。ヤコブは故郷にいることができず、叔父ラバンを頼ってハランへ逃亡しました。それから20年、ヤコブは二人の妻と二人の側女と11人の息子を儲け、四百人の召使い、莫大な財産を獲得しました。今、多くの奴隷と莫大な財産を携え、故郷に帰国しようとしていました。
しかし、故郷にはエサウが、ヤコブの帰って来るのを待ち構えているはずです。ヤコブはエサウを恐れ、ヤボクの川を渡ることができませんでした。32章12節に「どうか兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めてきて、わたしをはじめ母も子供も殺すかも知れません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほどおおくする』と。」あります。その時、ヤコブが祈った祈りです。ヤコブは自分の犯した罪に気づかず、身勝手なことを祈っています。
兄エサウですが、別名「エドム」と言います。「エドム」とは「赤い」という意味で、エドムは赤ら顔の恐ろしい顔つきだったようです。更に、長子の特権を奪い取られたのです.エソウの顔は火が燃えるように怒りに燃えていました。ところが、ヤコブは、エサウの顔が神の御顔のようにみえますと言っています。不思議にも、エソウの顔が穏やかに見えたというのです。エソウが変わったのです。変わったのは、エソウの「顔つき」だけでなく、エソウの人柄、人格も変わったのです。エソウは神に変えられたのです。ヤコブはその事実に気付いたのです。言い換えれば、変えられたのはエソウだけでなく、ヤコブ自身も変えられたのです。狡猾な者、奪う者と言われたヤコブが、忍耐強く、弱い者に寄り添う者、赦す者に変えられたのです。エソウとヤコブの二人は変えられました。そこに和解と平和が生まれるというのです。エサウとヤコブは和解の要因はヤコブとエソウの信仰です。28節に「『お前の名は何というのか』とその人は尋ね、『ヤコブです』と答えると、その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘い勝ったからだ。』」とあります。ヤコブはイスラエルと呼ばれるまで、変わったというのです。「イスラエル」の「エル」は「神」、「イスラ」は「サーラ・争う」の派生語で、「争う、従う」という意味がありますが、ヤコブの場合は「従う」と訳します。ヤコブはイスラエル、神に従う者に変えられたのです。32章29節に「その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。』」とあります。原文通り翻訳しますと、「これからイスラエルと呼ばれる。お前は神と闘った。そして、人に勝ったからだ。」となります。「神と闘った」の「闘う」はヘブル語で「シュリース」と言い、「苦闘しながら仕えた、付き添った」という意味です。つまり、ヤコブは苦闘しながら神に仕え、神に付き添ったとなります。「人と闘って勝ったからだ」の「人」は、ヘブル語で「イーシュ」と言い、所謂、「人間」のことではなく、「自分の中の自分、自分を悩ます我執、強い自我」のことです。つまり、強い我執、欲望に勝ったというのです。「勝った」は「ヤコール」と言い、「征服する、支配する、コントロールする」です。つまり、ヤコブは強い自我や自己主張を克復する者、自己をコントロールする者になったというのです。
ヤコブは帰郷を目前にして、エサウを恐れて、まず先に妻や子どもたちだけをヤボク川を渡らせ、一人だけ残っていました。32章25節に「その時、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」とあります。この「格闘」(口語訳・組み打ち)は、ヘブライ語「アバール」で「塵」を意味します。「主なる神は土の塵で人を造った。あなたは塵だから、塵に帰る」の「塵」です。その「塵・アバール」が、なぜ「格闘」と翻訳されているのか分かりません。この「アバール・格闘」は、勝利を誇る格闘ではなく、土の塵から造られた者であることを自覚させる格闘ではないかと思います。つまり、「格闘」は格闘でも、神によって塵から造られた者であるという認識と「塵」に過ぎない存在であるという信仰が与えられるための格闘であるというのです。つまり、「神との格闘」から神に愛されているという自己認識と信仰が生まれたのです。そして、その認識と信仰が和解を生み出したというのです。
32章26節に「そのとき、何物かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘しているうちに腿の関節がはずれた。」とあります。「格闘・アバール」は「抱え込む、抱擁する」という意味があります。32章4節に「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、口づけし、共に泣いた。」の「抱き締め」です。つまり、格闘は、ヤコブが神に抱かれ、抱擁されることを意味します。言い換えれば、ヤコブは神に抱擁されている自分を認識することができたとき、初めてエサウを抱き締めることができ、受け容れ、赦すことができました。神に受け入れられている信仰と経験が和解と平和を生み出したのです。
ヤコブが激しく格闘したために、「腿の関節がハズされた」と言います。腿の関節は「力」を表します。腿の力の喪失はヤコブの挫折を意味します。つまり、ヤコブは挫折の中で神を求め、神と出会い、生まれ変えられたのです。ヤコブはエサウのかかとを掴んで生まれたと言います。つまり、相手を引き落す者、奪う者として生まれました。そのヤコブがイスラエル・神に従う者に変えられたのです。そして、生まれ変わったヤコブが平和と和解を生み出したのです。ホセアは「生まれ変わる、つまり、信仰的変革がなければ、和解と平和は生まれない。反目する者、恨み合う者、異質な二人が和解できるのは、信仰によって生まれ変わらなければならない」といいます。ヤコブは、自分は義しいと思い、エサウに変わることを求めてきました。そうではなくて、ヤコブ自身が変わる、或いは、変えられる。そこに、和解と平和とが生まれるのです。ヨハネ福音書3章3節に「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」とあります。言い換えれば、人が新たに生まれなければ、和解と平和は訪れないとなります。新しく生まれ変わられる。イエスと出会い、イエスに受け入れられ、イエスを受け入れ、新しくされる。そこに和解と平和が訪れるといいます。新しくされることを祈り求めましょう。