2023年9月24日 「勇気と希望を与える信仰」ハガイ書1:1-9 ルカ5:27-39

 預言者ハガイが活動したのは、前539年ペルシャのクロス王によってバビロン捕囚民釈放布告が発せられ、イスラエルの人々が捕囚から解放され、エルサレムに帰国し、破壊された神殿の再建と信仰の復興に関わった時代です。ハガイはエルサレム神殿の再建と信仰の再興のために神の言葉を聴き伝えた預言者として祈り、活動しました。しかし、ハガイとエルサレムの人々との間には、神殿再建と復興に関して大きな隔たりがありました。エルサレムの人々が力を注いだのは、国力と王の繁栄、経済的な豊かさを求めた復興と発展であって、ハガイの求めた神殿再建と信仰の復興には反対し、妨害しました。そのような混迷した状況の中で、ハガイがイスラエルの人々に語った言葉が今日の御言葉です。

1章1、2節に、「ダレイオス王の第二年六月一日に、主の言葉が預言者ハガイを通して、ユダの総督シュアルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュアに臨んだ。「万軍の主はこう言われる。この民は、『まだ、主の神殿の再建する時は来ていない』と言っている。」あります。ダイオレス一世の治世は前522-486年です。ハガイの活動は前520年頃です。イスラエルの人々は神殿の再建に反対でした。

3、4節に「主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。『今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか』」とあります。エルサレムの人々は、経済的に豊かになって、自分の家を建ててから、神殿の再建に取りかかればよいと言い、最も大事にしなければならない、神殿再建を後回しにしていると言うのです。この「板」はレバノン杉のことです。レバノンは大きく良い杉材を生産し、ソロモン王の時代の神殿や宮殿の建設や自宅の建築に用いました。それ以来イスラエルの交易の中心になりました。ハガイは「あなたがたは自分の家はレバノン杉を張っているのに、神殿は廃虚のように、荒れ果てたままにしている」と言っています。つまり、国家の繁栄や自分の家の建築には熱心だが、神殿の再建には無関心でいる。それで良いのかというのです。イスラエルの人々の価値観や考えは倒錯している。最も大事にしなければならないこと、一義的なことにしなければならないことを見失っているというのです。9節に「お前たちは多くの収穫を期待したが、それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰るとき、わたしは、それを吹き飛ばした。それはなぜか、と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃墟のままであるのに、お前たちが、それぞれ自分の家のために、走り回っているからだ。」とあります。6、7節には「種を蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく、飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく、金をかせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるようなものだ。万軍の主はこう言われる。お前たちは自分の歩む道に心を留めよ。」とあります。イスラエルの人々は、種を蒔いたが、何も収穫できないと嘆いている。しかし、なぜ収穫できないかと、本質的なことを問わない。神殿を廃虚のままにして、自分の家のためにだけ、走り回っている。今日(こんにち)の問題は、神殿の再建と信仰を一義にしないで、自分のことを一義にしていることにあるというのです。つまり、何を一義にしなければならないかという本質的な信仰の問題を問わないところにあるというのです。

ルカ福音書10章38―42節の「マルタとマリアの物語」の41節に、「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」とあります。「多くのこと」は、「二義的なこと、非本質的なこと」という意味です。「思い悩む」は、ギリシャ語で「メリムナ」と言い、「思い患う、取り越し苦労する」という意味です。「心が乱れる」は「心が分裂する、二義的なものに深くつながる」という意味です。42節に「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」とあります。マリアは一義的な、つまり、本質的、究極的なものを求めている。そのマリアの求道的な生き方の中に救いと平安があるというのです。

ルカ福音書19章45-48節には、主イエスが神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出した記事があります。平衡記事はマタイ福音書21:12-17、マルコ福音書11:15-19です。マタイ福音書とマルコ福音書では、イエスが太いロープを振り回し、屋台や腰掛けをひっくり返して、商売をしていた人たちを追い出したと記され、正義感に燃え、人間味豊かなイエスが描かれています。しかし、ルカ福音書のイエス像は異なります。45節には「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』」とあります。イエスは神殿を「祈りの家」にすることを求めています。この「追い出す」は「外」と「投げる」の二つの言葉で成っていて、「船が沈没を避けるために積荷を船の外に投げ出す」という意味です。つまり、「人の命を救うために、積荷を海に投げ込むこと」を意味します。言い換えれば、非本質的なもの、二義的なものを捨てるという仕方で、本質的なこと、一義的ものを得る、救うことを意味します。カルヴァンはイエスを信じる信仰を難破している船に喩えています。沈没の危機に直面した船が、人命を救うために、積荷を海に捨てなければならない。しかし、積荷は大事なものばかりですから、捨てることはできません。しかし、捨てなければ、命は助かりません。その矛盾と葛藤の中で、救いのために、大事な積み荷を捨てることができる。それが信仰であるというのです。

フィリピの信徒への手紙3章8節に「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらのものを塵あくたと見なしています。」とあります。一義的なもの求めて生きよ、というイエスの信仰は、二義的なもの、非本質的なものを捨てても生きることができるという勇気と希望を与えるというのです。マタイ福音書6章23節に、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とあります。この「求める」も「見分ける、見て区別する」という意味です。ラインホールト・ニーバーに「神よ、与えたまえ。変わることのできないものを受け入れる冷静さと変えるべきものについて、それを受け入れる勇気と、この両者を識別できる知恵とを。」という祈りがあります。信仰は一義的、本質的なもとそうでないものとを識別させる。「識別する」は「分ける、見分ける」という意味です。変えることのできるものと変えることのできないもの、一義のものとそうでないものとを見分ける。また、変えることのできないものを受け入れる勇気を与える、それが信仰であると言います。一義的、本質的なものを求めるイエスの信仰を求道していきましょう。