2023年9月3日 「パウロの自由と寛容」使徒言行録15:1-21 16:1-5

 与えられたテキストは使徒言行録15章1-21、16:1-5節です。異邦人教会のパウロとバルナバと、エルサレム教会のペトロとヤコブとが、ユダヤ人以外の人がキリスト教信者になるとき、割礼を受けなければならないかを協議する場面です。割礼はユダヤ人のアイデンティティ、存在の根拠、誇り、存在価値で、ユダヤ人にとって重要な律法・儀式の一つです。BC2世紀ダニエル時代のシリアのアンテオコス・エピフャネス王はギリシャ化政策として、ユダヤ人の割礼を禁止したため、ユダヤ人はエピフャネス王に抵抗し、マカベヤ戦争を起こしました。ユダヤ人にとって割礼は戦争が起こるほど大事な律法でした。勿論、ヤコブもパウロもバルナバも割礼を受けていました。しかし、ユダヤ人以外のキリスト信仰者は割礼という信仰的伝統を継承していませんので、割礼を受けていませんでした。パウロやヤコブやバルナバは、十字架と復活のキリストを信じてからは、異邦人伝道を神の御旨としましたので、割礼を受けなくても良いという信仰でした。しかし、ユダヤ人の律法主義者たちは律法を絶対化し、スティファノを迫害死させるほど律法主義と割礼を絶対化し。狂信的に信じました。勿論、無割礼のユダヤ人キリスト教信者を認めることができませんでした。しかし、パウロとバルナバ、ヤコブは常に冷静に、神の御旨を尋ね、立場の違う者の主張に耳を傾け、聞き受けとめ、祈りの中から真理を見出していきました。

6節に「そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。『兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。」とあります。ペトロをはじめ、パウロも、長老たちも、ユダヤ人以外の外国人が割礼を受けなければ救われないということはない。誰でもキリソトの福音の言葉を聞いて、信じるならば救われる。彼らの心はキリストの福音信仰によって清められたというのです。ペトロたちは人の罪と穢れは割礼によって許され清められない、キリストの十字架と復活の福音の言葉を聴いて信じることによって救われるという真理を証ししました。議会は祈りと話し合いの結果、ユダヤ人以外の異邦人がキリスト教信者になるとき、割礼を強制しないことを決議しました。

ペトロもパウロもユダヤ人として生まれ育ち、割礼を信じてきました。それだけに、割礼を受けなくてもよいと決議することは、重大な決断でした。しかし、ペトロとパウロは議論の中で、割礼は救いに関係がないことを認めるに至ったのです。そのためにはペトロもパウロも生まれ変わるような変革をしなければなりませんでした。

使徒言行録15章40節に「一方パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。」と、16章1節には「パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシャ人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。」とあります。ユダヤ人を母に、ギリシャ人を父に持つ、所謂混血人のテモテを通して、キリストの福音はマケドニア、シリア、ギリシャ、ヨーロッパに広がって行ったというのです。つまり、キリストの福音が前進するためには教会の変革がなければならなかったというのです。勿論、変えてはならないこと、変えられないことがあります。変わらなければならないこと、変えてはならないこと、両者を識別させたのが信仰と祈りであったと思います。ペトロもパウロも、律法主義に囚われることなく、救いのために無くてならないものと、そうでないものとを見分けることができたということができます。

作家の高史明さんの妻の岡百合子さんは、12歳の息子を自死で失いました。50年も前の話ですが、彼女は母親として息子を夭折させた自責と絶望に苦しみました。友人から慰めの手紙を頂きます。その手紙にラインホルト・ニーバーの言葉、「神よ、変わることの出来ないものを受け入れる冷静さと、変えるべきものについて、それを受け入れる勇気と、この両者を識別することの出来る知恵とを与えてください」という祈りが記されていました。この言葉は深い淵に落ちて苦しんでいた岡百合子さんの命綱になりました。「本質的なことは、変えることの出来ないものを受け入れる冷静さ、変えることの出来るもの変えていく勇気、その両者を識別できる信仰である」と記されております。岡百合子さんはパウロとペトロの信仰を証ししているのではないかと思います。

初代教会を分裂しそうな割礼の問題から解放し救済したのはヤコブです。使徒言行録12章2節に「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」とあります。使徒ヤコブはヘロデ王によって殺害されていましたから、使徒ヤコブではなく、イエスの弟のヤコブです。イエスが少年のとき、家出するように、ナザレからエサレムに行って、神殿で教えていたことがありました。弟ヤコブはイエスを見つけ、ナザレに連れ戻しました。その時は、イエスを信じることができませんでした。しかし、ヤコブも成長し、イエスを信じ受け入れ、使徒となって、重要な教義を決める使徒会議の議長になっているのです。そして、割礼を受けなくても救われるという裁決をくだしているのです。ヤコブの人生を見ると、神のなさる業は実に不思議であると思います。神は想定外の、全く予期できないことを起こし、導いてくださいます。

パウロは割礼を否定しています。救われるにはイエスを信じるだけで、割礼は必要がないという考えです。そのためにファリサイ派のユダヤ人から迫害を受けます。しかし、ひるむこともなく、律法の割礼の無効、信仰による救いを主張し続けました。

使徒言行録16章3節に「パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。」とあります。テモテはギリシャ人の父と敬虔なユダヤ人キリスト教信者の母との間に生まれました。パウロはテモテを伝道旅行に連れて行くために、ユダヤ人の手前、彼に割礼を施したというのです。パウロの信仰と自由と寛容のだと思います。使徒言行録15章26節に「このバルナバとパウロは、主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。」とあります。パウロは自己の考えを絶対化しません。パウロは自由で、寛容で、柔軟で、常に謙虚で、優しいです。フィリピの信徒への手紙1章20節「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」とあります。教会は常に「キリストのために」が、一つの規範です。永遠に変わらない一線です。それ以外は大胆に変革していく共同体です。変えれば、必ず新しい道が与えられ、導かれます。