2024年4月21日 復活節第4主日 「イエスを信じる信仰」ヨハネ福音書11:1-44

 与えられたテキストはヨハネ福音書11:1-44の「ラザロを生き返らせるイエスを信じる信仰」」です。ベタニアの出身のマルタとその姉妹マリアに、ラザロという兄弟がいました。ラザロは病気で苦しんでいました。3節に「姉妹たちはイエスのもとに人をやって。『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた。」とあります。4節以下に、「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてから、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。『もう一度、ユダヤに行こう。』」とあります。イエスはラザロを愛しておられたのですから、何を置いてもラザロのところに駆けつけるのが自然です。それなのに、四日間も、ラザロのところに行かないで、そこに留まったというのです。イエスの取った行動は不自然で、矛盾しています。でも、イエスは思慮深い愛の方ですから、深い愛と御旨があるはずです。

14節に「そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかった、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。』」とあります。パウロの「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」という言葉を思い起こします(コリントⅡ4:18)。目に見えない神の真実をみるようにというのです。

17節に「さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。」とあります。イエスがベタニアに来られたときは、ラザロは既に亡くなり、墓に葬られていました。21、22節に、「マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにおいでくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。』」とあります。32-37節には、「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』 彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか。』と言う者もいた」とあります。マルタ、マリアの姉妹は勿論、多くのユダヤ人も、イエスも、ラザロの死を悲しみ、涙を流がされました。しかし、ユダヤ人の中には、「盲人の目を開けたイエスでも、ラザロが死なないようにはできなかった、イエスの力は死には及ばない、無力だ、頼りならないと否定し、批判しました。イエスは、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、「どこに葬ったのか。」と言われたといいます。塚本虎二訳は「不信仰を見て」という言葉を補って、イエスはマルタとマリアを含めてユダヤ人たちの不信仰を見て、憤り覚え、興奮されたと解釈しています。イエスを信じられない、神への信頼を失い、悲嘆に打ちひしがれている彼らに憤りを持ったというのです。カルヴァンは、イエスは、マルタとマリアの不信仰を見て憤ったのではなく、マルタとマリアを絶望に落とし入れ、悲嘆に暮れさせた死と絶望に対し憤ったといいます。「死」はわたしたちを無力にし、絶望と悲しみのどん底に突き落とします。イエスはその死の力に憤りを覚えられたというのです。33節に、「イエスは。彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、」とあります。この「憤りを覚え」は、「身震いをする、身体を震わす」という意味です。「興奮して」は、ギリシャ語で「エンブリマオマイ」と言い、「馬が鼻をならして怒る、顔を真っ赤にして怒る」という意味です。イエスは身体を震わせ、顔を真っ赤にして、絶望させる死と死の力に憤ったというのです。

38節に「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。」とあります。「来られた」は「対峙する、高くそびえ立つものに向き合う」という意味です。39節に「死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。」とあります。「におう」は「全ては終わり、死と絶望が支配する世界」を意味します。イエスは、死と絶望の支配する世界に対峙し、打ち勝つために、わたしたちに先駆けて、墓に入られたというのです。死と絶望に対峙する主イエスの姿から、わたしたちを死と絶望から救い、守ろうとする主イエスの愛が伝わってきます。

イエスはローマの兵士たちに逮捕されるとき、弟子たちをかばうために、「わたしがイエスだ」と自ら名乗り出ています。イエスが十字架につけられる。その代わりに、弟子たちを見逃し、弟子たちの責任を引き受けた。イエスはどのような苦難に出遭っても、弟子たちを守るという愛を明らかにしています。

40節に「イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた」とあります。ラザロは死に、全ては終った。今さらどうにもなるものではないと絶望しているマルタとマリアが、神の栄光を見るというのです。この「神の栄光」は、ギリシャ語で「ドクサ」と言い、「威厳・力」という意味です。イエスが、「ラザロ 出て来なさい」と大声で叫ばれると、葬られていたラザロが墓から出てきました。神の言葉と力は葬られた墓からラザロを生き返らせたのです。イエスの言葉を信じる者は神の栄光と神の力を見ることができるというのです。死と絶望と罪に立ち向かう武器は剣や槍ではなく、イエスを信じる信仰であるというのです。

4節に「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるのではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである』」、15節に「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたが信じるようになるためである。」、26節には「生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」、40節に「もし信じるなら、神の栄光(威厳、力)が見られると、言っておいたではないか。」、とあります。マルタとマリアにとって、ラザロの死は不条理なことで、受け入れること、信じることはできませんでした。しかし、この不条理に打ち勝たなければなりません弟子達。イエスは、死と不条理に打ち勝つ武器は「イエスを信じる信仰である」と言います。 「イエスを信じる」の「信じる」は、ギリシャ語では、「中へ」という前置詞がついています。イエスの中へ入るという意味です。言い換えれば、主イエスを信頼し、委ねていくという意味です。「信じることは力だ」と言います。死と絶望に打ち勝つ力は信仰の力です。キュブラー・ロスは、「殆どの人は、人生の中で直面するあらゆる苦難、あらゆる試練、あらゆる喪失を神の呪い、神の罰と考えています。でも、自分の身に起こることに悪いことは何一つないと気づかなくてはなりません。本当に何一つ悪いことはないのです。どんな試練も苦難も、辛い喪失も、全てあなたへの贈り物なのです」と言っています。キュブラー・ロスの言葉から、神を信じる信仰の本質を考えさせられます。ヴィクトール・フランクルの「人生に起こるすべてのことに意味がある。」という言葉を思い起こします。神を信じることの大事さを学びます。最後まで、主イエスの言葉、約束を信じていくことです。信じるなら神の栄光を見るというイエスの言葉を信じていきたいと思います。