2024年5月26日「神の召命と救い」イザヤ書6:1-13 ヨハネ15:16

 イザヤが預言者に召命された出来事が記されています。1節に「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」とあります。紀元前745年、ウジヤ王が亡くなり、ティグラト・ピレセル三世がアッシリアの王に即位しました。不思議な出来事ですが、同じ年、イザヤが預言者に召命されました。主なる神の導きだと思います。ウジヤ王は信仰深く有能な王で、52年間も南ユダ王国に在位し、政治的安定と経済的繁栄をもたらしました。ウジヤ王が亡くなると、アッシリアのティグラト・ピレセル三世はオリエントの覇者になる野心も持って、南ユダ王国と北イスラエル王国に侵略を始めました。シリヤとエフライム(北イスラエル)は、アッシリアに対抗し、同盟を結びました。南ユダ王国のアハズ王にも同盟の加わるよう迫りました。しかし、アハズ王はイザヤの進言を受け入れ、加盟しません。連合軍は大軍をエルサレムに向け、加盟を迫りました。アハズ王は慌てて、アッシリアに援助を求めました。イザヤは「外国の力を頼るならば、滅びる。主を信頼し、主に頼れ、落ち着いて、恐れるな。」とアハズ王に信仰に立つことを求めました。しかし、アハズ王はイザヤの勧告に耳を貸さず、エルサレム神殿から膨大な財宝を持ち出し、アッシリア王に貢ぎ、援助を求めました(列王記下16:7-9)。アッシリアのティグラト・ピレセル王は、アハズ王の貢ものに応えて、シリア・エフライム軍を攻撃しました。シリア・エフライムは滅びますが、南ユダ王国は滅亡を免れました。ところが、アハズ王はイザヤの勧告を裏切って、ティグラト・ピレセル王を訪問し、ダマスコにあったアッシリアの神々、バール、アシュラの神々をエルサレムに持ち込み、神殿に祭りました。イザヤは「アッシリアに援助を求めれば、滅びる。主なる神のみを信頼し、委ねていかなければならない」と警告しました。しかし、アハズ王はイザヤの言葉を聞き入れません。

10節に「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、悔い改めていやされることのないために。」とあります。アハズ王は聞き入れないどころか、イザヤを脅迫し迫害しました。イザヤも呟き、失望落胆しました。イザヤの言葉通り、BC727年南ユダ王国はバビロンの侵略によって、衰退し滅びます。

マタイ福音書10章16節には「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」とあります。イザヤは南ユダ王国が激しく変動する時代に預言者に召されました。また、活動した時代は、彼らが語る言葉を素直に聞く時代ではなく、大変厳しい時代でした。コリントⅡ4章8節に「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅びない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」とあります。イザヤも「いついかなるときも、敵を恐れず、主なる神は共にいるという信仰に立って、生きよ。」と語り続けました。イザヤを粘り強く生かした原動力は主なる神を信じる信仰であると思います。

アハズ王の死後、ヒゼキヤが南ユダ王国の王に即位しました。ヒゼキヤはアハズ王と違って、反アッシリア政策を取り、反アッシリア同盟の盟主となりました。アッシリアでは、強固なセンナケルブ王が即位し、アッシリア帝国を建設するために、シリヤとエフライムを倒し、更に南ユダ王国に侵攻し、エルサレムを包囲し、陥落を迫りました、そのとき、ヒゼキヤ王は反アッシリア政策を改め、親アッシリア政策を取り、神殿や宮殿倉庫にあった莫大な財産をアッシリアに貢ぎ物として贈りました。イザヤはヒゼキヤ王に、「イスラエルは、外国の力や武力に頼れば滅びる。主なる神を信頼し、委ねることが生きる道である」と進言しました。イザヤはどんなに反対され、迫害されても、恐れ絶望することなく、神への信頼を堅持し語りました。

イザヤ書30章15節に「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。』」とあります。イザヤは「神を信頼することこそ、生きる力である。」と、どんなに反対され、迫害されても、語りました。「信頼する」はヘブル語で「バタハー」といいます。敵が頭の上を飛び越えても、大の字になって横になっていることができるように、自らを神の御手に委ね、神を信頼する、神の御旨を真摯に尋ね、応えていくという意味です。イザヤは、どんなに反対され、迫害されても、主なる神を信頼することを語りました。

6章8節に「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰がわれわれに代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしください。』」とあります。「わたしを遣わしください」には、神に愛され、赦されているという信仰が根底にあり、神の恵みと愛に応えたいという思いがあります。

ヨハネ福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」とあります。「任命する」は「保証する、責任を持つ」という意味です。イエスの弟子たちは「使徒」と呼ばれますが、「使徒」は「アポストロス」と言い、動詞は「アポステロー」で、「遣わす、派遣する」という意味です。使徒とは派遣されている者のことです。自分の思いや願望ではなく、派遣する神の御旨、御心を実現するために遣わされている者のことです。

6章5節に「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたした汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、主なる万軍の主を仰ぎ見た。」とあります。言い換えると、「ああ、わたしは駄目だ」となります。預言者も使徒のように、神に遣わされている存在ですから、神が導き、報いてくださると信じています。イザヤは弱く憶病でしたが、主なる神と出会い、受け入れる信仰に立つと、逞しく、粘り強く、寛容な存在に変えられました。

ローマ7章24節に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」とあります。パウロはる実存的な死と絶望から救われたことを神に感謝しています。イザヤ53章5節には「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった、彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」とあります。イザヤの実存的な挫折と死と絶望からの救いの経験が語られています。神は、実存的に死に、滅びたイザヤを「良し」と肯定してくださり、生かしてくださった。労苦が虚しくは終わることはない、報われると言います。神の召命と救いを信じ、受け容れて行きましょう。