2024年6月9日 「主なる神は、わが力」ハバクク3:17-19 フィリピ4:10-13

 小説家高史明(コ サミヨン)さんは昨年亡くなられました。1932年に生まれですから、享年91歳です。コ サミヨンというお名前どおり、在日朝鮮人2世です。戦前の生まれですから、差別と偏見の中で育ちました。3歳のとき、母親が病死され、石炭仲仕の父親に育てられました。高さんの半生を記した「生きることの意味」という著書は、日本児童文学者協会賞を受賞されました。高さんには「僕は12歳」という詩集を遺して世を去った息子(岡真史)がありました。彼は小学校生のとき、詩と作文を書き残し、命を絶ちました。その詩と高さんと母の岡百合子さんとの感動的な交換書簡が「僕は12歳」という書名で出版されています。高さんは「生きることの意味」という著書は、厳しい世の中を生きていかなければならない息子に読んで欲しいと思いで著した。しかし、息子の真史さんは夏目漱石の「心」を愛読し、読まなかったそうです。高さんは、「人間は新しく生まれ変わらなくてはならない。見えている現実を超えた、見えないものを見る目を持たなければならない、息子を失い、孤独と絶望の苦難を経験する中で、その真理が明確になってきた」と述べています。

高さんは息子の喪失からくる悲しみ、孤独、後悔、自責の念に打ちのめされ、奈良に旅行されました。その日は特別夕方が美しく、辺りの山々、樹木が黄金色に変わったそうです。その中で高さんは不思議な経験をされるのです。自分の力で、懸命に努力し、精進する中では、平安を得られない、救われない、全ての創造の主に、罪赦され、生かされている自分を発見するという回心を経験されたと記しています。 

コリントⅡ5章17節に、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです、古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。高さんは自分を支えているのは見えている現実ではなく、目に見えないもう一つの現実がある。その真理を悟ることができたというのです。 

ハバクク書3章17節に、「イチジクの木に花は咲かず。ぶどうの枝はつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる」とあります。「イチジクの木に花は咲かない。ぶどうは枝をつけず」は、言い換えれば、「もう駄目です。どうすることもできません。諦めています。」となります。この言葉の背景には、南ユダ王国のヨシヤ王の突然の死があります。ヨシヤ王はエジプトの王・ネコとメギドの戦いで戦死しました(BC609年)。ヨシヤ王は、エルサレム神殿の修復中、古い巻物、申命記法典を発見し、「正しい者は必ず冨み、栄える。悪しき者は厳しく裁かれる」という申命記律法に基づいて改革を行いました(BC622年)。そのヨシヤ王の死は宗教改革中の突然の死です。多くの人々に信仰的、精神的な動揺を与え、精神的支柱を失い、信仰的な疑いを生み出しました。「ヨシヤ王のような信仰に忠実な王が、なぜ滅びるのか? 神は、なぜこのようなことを許されるのか? 神は何故黙っておられるのか?」と、神と人生に対する不信感と疑いを生みました。信仰を失った南ユダ王国はバビロン帝国によって滅ぼされ、イスラエルの人々はバビロンに連行されました。ゼデキヤ王は、バビロンの王ネブカドレッアルの前に連行され、息子たちは目の前で殺害され、王の両眼をえり取られました(列王記下25:1以下)。
イスラエルの人々は、「神は神の民のヨシア王を見捨てたのか? 正しいもが苦しみ、不義なる者が繁栄する。神はなぜこの矛盾を見過ごされるのか。神を信頼し従ってきたのに、どうして苦難に遭うのか?」と、世の矛盾した現実を見て、希望を失い絶望しました。

ハバクク書3章17―19節に「いちじくの木は花を咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに躍る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませる。」とあります。この「喜ぶ」は、フィリピ4章4節の「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」の「いつも喜びなさい」と同じ言葉、意味です。つまり、喜べない状況の中で、喜びを持って生きることを意味します。また、「主によって」は「主に結びついて、主につながって、神に向かって、神に目を向けて、神を見上げて」という意味です。

ゼデキヤ王は、預言者ハバククの忠告に耳を傾けないで、バビロンのネブカドレッアル王に、反旗を翻し、エジプトに援軍を求めました。ハバククは、ゼデキヤ王に、エジプトの力、世の力、目に見える現実の力を頼りにする限り、救いはない。世の力ではなく、神を信じることを求め、世の力に頼らない勇気を持つことを求めました。しかし、ゼデキヤ王は、バビロンのネブカドレツァルの猛威を見せつけられ、どうすることもできず、無力感に打ちのめされ、エジプトを頼りました。預言者ハバククは「わたしの主なる神は、わが力」と、ゼデキヤ王に神を信じることを勧め、主なる神以外に依り頼むものはないと進言しました。

2章4節に「しかし、神に従う人は信仰によって生きる」とあります。主なる神を信じる信仰に基づく希望に生きる人は、どのような状況に出遭っても、苦難に打ち克って生きることができるというのです。マックス・ウエバーは、今から130年も前に「資本主義が高度に発達し、物質的な豊かさが世を覆うときが来る。それに伴い、精神のない専門人と、心のない享楽人が現れる。人は、豊かさの中で生きる道を見失う。冨の欲求のために、心はすさみ、孤独と虚無に苦しむ」と言っています。パウロは、フィリピ4章11節以下で、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かと言っています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」と言っています。「貧すれば鈍する」という諺があるように、貧しくなり、苦難に出会うと、心を失い、歪めます。また逆に、物が豊かになり、豊穣すると、心を失い、愛を喪失する。ウエバ―の言われるように豊かさの中で生きることは、貧しさの中にいるときに劣らず、難しいです。しかし、パウロは、主なる神のお陰で、できないことはないと言います。主なる神は出口のないような現実の中に置かれても、その現実を超える道を、希望を与えてくださる。周囲の事情がどんなに暗くても、まに、どんなに豊穣でも、物のが豊かであっても、傲慢にならないように、神が光を与えてくださる。その神の光を見出していく生き方をしていきたいと思います。