預言者エゼキエルは第一回目のバビロン捕囚で、南ユダの王ヨヤキンと共にバビロンに捕囚として連行されました(BC597)。5年後、ユーフラテス川の支流のケバル河畔で召命を受けました。更に、紀元前587年、エゼキエルのバビロン戦争回避の祈りの甲斐なく、戦争が勃発し、イスラエルはバビロニア王ネブカドネザルに敗れ、エルサレムと神殿は破壊され、多くの民はバビロンに連行されました。箴言29章18節に「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである」とあります。「堕落する」は「滅びる、滅亡する」という意味です。エゼキエルは幻がなければ、国家も民も滅亡するという考えです。国が存立するには、軍事力や経済力ではなく、国家としての「幻の存在」であるというのです。国家が平和に存続するには、国家としても、個人としても「幻」を持つことが何より本質的であるというのです。
ペトロは、使徒言行録2章14節以下で、ヨエル書3章1節の「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」を引用し、「若者も、老人も救われるためには、幻と夢を見なければならない」と言います。この「幻」は、ギリシャ語で「ホラシス」と言い、「包んでいるものを剥がして中身を明らかにする手立て、神の御心を示す手段」という意味です。「夢」は「エンウピニオン」と言い、「希望」という意味です。「幻と夢」は、国家が存続し、人が生きていくとき、無くてはならないものであると言います。しかし、「幻、夢」と言うと、現実には実在しない、直ぐに消え去る、はかないものを考えます。しかし、この「ホラシスの幻、エンウピニオンの夢」は、実在しない、すぐに消え去るものではなく、捕囚の人々を解放する神の救いと希望を意味します。
11節に「主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる。』」とあります。エゼキエルは、神に導かれて、ひどく痛んだ枯れ木のような沢山の骨が捨てられていた谷に連れて行かれました。そこで見る情景は、目をそむけたくなる情景でした。
枯れた骨はイスラエルの現実を象徴しています。イスラエルの民は戦いに敗れ、捕囚民として、バビロンに連行され、ユーフラテス川の河畔で、為すこともなく、嘆き、悲しんでいました。箴言17章22節に「霊が沈み込んでいると骨まで枯れる」とあります。捕囚民は故郷のエルサレムに帰る夢と望みが断たれ、絶望していました。敬っていたゼデキヤ王は戦いに敗れ、ヨルダンの東に逃亡しましたが、途中エリコで捕らえられ、両目はえぐり取られ、足枷をはめられ連行され、王子たちは目の前で殺されました。ゼデキヤ王の無残な姿は、捕囚の民の精神的な心の傷になりました。
4節に「そこで、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よこう言われる。見よ。わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」とあります。7節、8節には「わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて,骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。」とあります。12節、13節には「それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」とあります。枯れた骨は生き返って、自分の脚で立ち、大きな集団になった。同時に、エゼキエルは神の言葉と力を信じる者に変えられたというのです。
15節、16節に「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、あなたは一本の木をとり、その上に『ユダおよびそれと結ばれたイスラエルの子らのために』と書き記しなさい。また、別の木をとり、その上には『エフライムの木であるヨセフおよびそれと結ばれたイスラエルの全家のために』と書き記しなさい。それらを互いに近づけて一本の木としなさい。それらはあなたの手の中で一つとなる。』」とあります。イスラエルの民が捕囚から解放され、エルサレムに帰還し、南ユダと北エフライムとが統一国家を建設するのはエゼキエルの幻と夢です。また、イスラエルの民の半世紀以上に及ぶ捕囚の苦難、絶望、孤独に打ち克つ力でもありました。捕囚民は幻と夢によって精神的な崩壊と滅びから免れることができた事実を伝えています。
捕囚の時代は、幻と夢、将来に対する未来像、理想、期待を喪失した時代です。「若者は幻を見、老人は夢を見る」とヨエルは言いますが、若者も、老人も、全ての人が将来の未来像と希望を持てない時代でした。幻は所与です。自分が作り出し、考え出せるものではありません。神から与えられるものです。出来ることは、神の所与を祈ることです。同時代の第二イザヤは「見よ、あなたたちの神を。見よ、未来から来る神を」と言っています。「未来から来る神」とは「希望を与える神」という意味です。捕囚民は「希望を与える神」に結びつきなさい。枯れ果てた骨を、組み立てて、非常に大きな集団にする神を信じ、結びつく、そこから与えられる希望と目標を目指して行く、というのです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ1:17以下に、教会の中に分裂、分派の争いが生じ、パウロを苦しめたことが記されています。「わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつく、わたしはペトロにつく」と、自己を絶対化し、互いに裁き合い、排除し、対立し、争いが絶えませんでした。パウロは、その現実の中で、互いに相容れないものが一つになる幻と夢を語りました。イエスの十字架は敵意という中垣を取り除き、一つにする幻と夢、未来と理想を与えるというのです。使徒言行録10章9節以下に、弟子たちが、天が開いて大きな風呂敷が降って来る幻も見る物語が記されています。風呂敷の中には律法で食べことが禁止されていた獣、地を這う動物、鳥が入っていました。そのとき、天から「屠って食べなさい」という声がしました。弟子たちは「ああ主よ、とんでもないことです。わたしたちは清くない物、汚れた物は何に一つ食べたことがありません。」と答えました。「神が造った物を清くない、汚れているなどと言ってはならない」とい声が天から聞こえたというのです。この幻はユダヤ人と異邦人が一つに結びつく幻です。
ガラテヤの信徒への手紙3:26に、「あなたがたは皆、信仰により、キリストの前では、ユダヤ人も異邦人もない、男も女もない、奴隷も自由人もない、皆、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスおいて一つだからです。」とあります。一人一人がキリストに結びつくことによって一つになる。神の幻、希望が与えられたというのです。神の幻と希望を信じて、受け入れたいと思います。