教会の葬儀式の祈りの中に「全能の神,慈愛の父、主のみ心は奇しきして測り知ることができません」という言葉があります。どの人の人生を振り返っても、神の愛と恵みとが満ち溢れていた事実をみることができます。絨毯のように裏側はごちゃごちゃしていますが、表側は神に導かれ、美術作品のように美しいです。誰の人生にも失敗、過ちがありますが、神に赦されている事実を見ることができます。
モーセは、紀元前14世紀初頭、エジプトで生まれ育ちました。イスラエル人は貧しく、弱小で、エジプト人の奴隷でした。或る日、モーセは、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐待されているのを目撃し、激怒し、エジプト人を殺害し、地中に埋める過ちを犯しました。モーセはエジプトに居ることができず、ミディアンに逃れました。そこで祭司エテロに助けられ、羊を飼う仕事が与えられました。エテロの娘と結婚し、子どもが与えられました。寄留者生活でしたが、平穏な生活を送っていました。或る日、モーセの人生を大きく変える出来事が起こりました。3章7節に「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。』」とあります。イスラエル人はエジプト人の奴隷で、国土もありません。モーセはミディアン人の寄留者、亡命者でした。エジプトは、ピラミッドが示すように、経済的に発展した大国で、国力は巨大でした。モーセは神と出会い、与えられた使命は、重労働で苦しめられているイスラエルの人々をエジプトから脱出させることでした。人間的にはできることではありませんでした。
3章11節に、「モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』とあります。モーセは、イスラエル人をエジプトから救い出せと命じられても、「どうしようもない、どうして、わたしでなければ、ならないのか」と呟く小さな、弱い存在でした。4章10節に、「それでもなお。モーセは主に言った。『ああ、神よ、わたしは口下手な者です。そういうわたしが奴隷で苦しんでいる人々のところ行って、言ったところで何になるのでしょうか。」とあります、モーセの呟きです。再び、神の言葉を聞き、一層卑屈になり、苦しみ、絶望しました。しかし、神は諦めません。神は、三度、弱く絶望するモーセをエジプトの王のところに遣わします。遂に、モーセは神の言葉を信じて、エジプトの王の前に立ちました。5章1節に「その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。『イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい。』と。」とあります。ファラオは『主とは一体何者なのか。どうして、わたしが主の言うことを聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせることはしない。』と答えた。」とあります。7、8節には「これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。」とあります。ファラオはイスラエルの人々が反抗するために、更に過酷な重労働を課せました。イスラエルの人々は、ファラオの怒りを知って、「わたしたちを王とその家来たちに嫌わせ、剣を彼らの手に渡して殺させようとしている」と、モーセに激しく詰め寄りました。モーセは窮地に追い込まれ、主のもとに帰って、訴えます。
5章22節に「モーセは主の元に帰って、訴えた。『わが主よ、あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。』」とあります。モーセは、主に従ったために多くの人の反対に会い、身の危険を感じる、事態は悪化するばかりで、神の思いは一体どこにあるのですかと主を疑っています。6章1節には、「主はモーセに言われた。『今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、彼らを国から追い出すようになる。』」とあります。この「今や」は、「今に、やがて、そのうちに」という意味です。言い替えると、「今は、遣わされた意味が分からないかも知れないが、今に、分かるようになる。分かる時が来る」となります。苦しんでいる意味が分かる時が必ず来るという信仰です、ヨハネ福音書13章7節に、「イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたに分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。」とあります。イエスが弟子たちの足を洗われる意味が、「今は分からないが、分る時が来る」という信仰です。コヘレトの言葉3章1節には「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」とあります。神のなさることはわたしたちの理解を超えていて、分らないことがあります。しかし、時が満ち、理解できる時が与えられるというのです。3章14節に、「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」とあります、「わたしはある」は。言い替えれば、「わたしはいる、わたしは必ずあなたと共にいる」となります。また、「必ず」は「あなたのために」と訳せます。「わたしは、あなたのためにいる、存在する」となります。ちなみに、仏教では「無・空、ない」が、根本思想です。「自分の存在も無、何も遺らない。無を悟る」です。ヤッハウエの神は「有る。いる、永遠にいる」です。
6章2節に「神はモーセに仰せになった。『わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名を知らせなかった。わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした」とあります。「彼らと契約を立て」の「契約」は「決心、決断」という意味があります。「神は決断した」となります。神は決断して、紅海を二つに裂き、地を現し、渡らしてくれました。神は決断し、昼は雲の柱になり、夜は火の柱になって導きました。問題は、神の約束を信じ、全てを委ねることでした。マタイ6章33,34節に「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とあります。イエスの約束です。イエスの約束を信じて歩んで行きたいと思います。