2024年1月7日 「神の国を目指して」 ヨハネ福音書6:16-21

 与えられたテキストはヨハネ福音書6章16-21節です。イエスが弟子たちだけで舟で向こう岸に出発させる場面です。弟子たちは山の上で「五つのパンと二匹の魚」で、イエスから給食を受け、神の奇跡的な恵みと救いに与りました。16節に「夕方になったので、弟子たちは湖畔へ降りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。」とあります。「行こうとした」は、聖書的には主イエスの恵みを受けた者として「遣わされた」という意味です。「向こう岸」は、地理的にはガリラヤ地方の「カファルナウム」ですが、聖書的には人生目的地、目標を意味します。弟子たちは主イエスの恵みを受け、人生の目的に向かって遣わされ、出立したというのです。この弟子たちの姿は創世記12章のアブラハムの旅立ちを想起させます。創世記12章1節に「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。』」とあります。アブラハムは神の言葉を受け、促されて、住み慣れた故郷ハランを出立ちしました。マタイ福音書も弟子たちはアブラハムのように信仰に立って、向こう岸に出立したというのです。

17節に「イエスはまだ彼らのところには来られなかった。強い風が吹いて、湖が荒れ始めた。」とあります。「強い風が吹いてきた」の「強い風」は「正面から吹きつけ、行く手を阻む逆風」のことです。神から祝福の恵みを受けた者は強い向かい風に出会い、荒れ海を漕ぎ進まなければならないというのです。時間的に表現すれば、明日、起こる試練や苦難に出遭わなければならないとなります。主イエスに従い、福音宣教に生きる者は逆風に出会い、思い患い、不安に陥り、虚しい思いになる時がある。主イエスに選ばれた者であっても苦難と試練に出会うというのです。

19節に「二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。」とあります。弟子たちは、荒れ狂う海の上を歩いて来るイエスを見て、自分たちを滅ぼしに来たと思ったといいます。弟子たちは荒れ狂う荒れ海を恐れて、イエスを信じることができなかった。つまり、イエスから弟子たちの信頼の目を離してしまったというのです。或る神学者は「恐れは、イエスと荒れ狂う海との二つを同時に見ることから生じる」と言います。弟子たちは海にはティアマットが棲み、人間を飲み込んでしまう、恐ろしい世界と見ていました。また、世には悪霊のサタンが棲んでいると恐れ、イエスに対する信頼の目を喪い、イエスから目を離してしまいました。そのために、弟子たちは荒れ狂う海と世を恐れたというのです。

マタイ福音書14章16節に「イエスは言われた。『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。』 弟子たちは言った。『ここにパン五つと魚二匹しかありません』とあます。弟子たちは、イエスが5千人の群衆を五つのパンと二匹の魚で給食する不思議な出来事を目撃したのに、主イエスから「五つのパンと二匹の魚で、五千人を給食しなさい」と命じられると、「それは無理です、それはできません」と拒否しました。「それは無理です。それはできません」と現実世界だけを見て、主イエスから目を離してしまったのです。主イエスは弟子たちに本質的なことは、神のみに目を注ぐことであるというのです。

9節には「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」とあります。「わたしだ」は、ギリシャ語「エゴー エミイー」と言い、「わたしはいる」という意味です。ヘブル語では「ヤッハウェ」と言い、「わたしは在って在るもの、わたしは有る」という意味です。言い換えれば、神は何物にも依存しないで、神自体で存在するという意味です。出エジプト記13章12節に「神は荒れ野で、彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。」とあります。ヤッハウェの神は、イスラエルの人々が荒れ野で飢えに苦しんだ時に、マナを与え、渇きに苦しんだ時に、岩から湧き水を出し、何もない荒野で助け導きました。その何もない荒れ野の救いの出来事が「わたしは在って在るもの、わたしは有る」という神の存在の証である。言い換えれば、「わたしはあなたがたと共にいる」という証であるというのです。神はいつも共にいてくださる方です。五つのパンと二匹の魚で給食する主イエスは、「ヤッハウェの神」であるというのです。どんなに闇が深く、逆巻く波が高くても、主イエスは共にいて、守ってくださるというのです。

レンブラントのデッサンの中に「嵐の中のキリスト」という作品があります。荒波の中の浮かぶ木の葉のように翻弄されている小舟の中の弟子たちが、キリストに守られている。イエスを見上げて、平安を得ている弟子たちが描かれています。レンブラントの信仰理解だと思います。レンブラントの人生は不運な出来事の連続でした。結婚し、長男が生まれますが、一年経たないうちに亡くなります。直ぐ長女が産まれましたが、1ケ月で亡くなります。直ぐ次男ティトゥスが産まれましたが、妻サスキアが自分の生命を与えたように、乳飲み子ティトゥスを遺して亡くなります。その後、優しいヘンドリッキと再婚しますが、彼女も13年の短い結婚生活で亡くなります。一人り残っていたティトウスも亡くなります。レンブラントの人生は愛する家族を失う悲嘆に暮れ、困窮生活。正に、逆風の中を翻弄される舟のような人生でした。正に「嵐の中のキリスト」です。「わたしだ。恐れることはない」というキリストの慰めの言葉で、心を穏やかにしていることができたのではないでしょうか。

21節に「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とあります。信仰の勝利を象徴しています。人生の途上にはいろいろなことがありますが、神は、最後は勝利に導いてくださいます。ヨハネ福音書は、イエスの救いは弟子たちを悩ます逆風がおさまり、凪ぎになることではなく、キリストの目指す地に着くことであると言います。コリントⅡ4:17には「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見るものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」とあります。自己の栄誉と栄光を求めるのではなく、信仰の勝利を先取りして、歩みを始めましょう。

三浦綾子さんは「過去は良いのです。あなたの今からの一歩を、キリストの愛の手に導かれて歩みたい、あなたの人生を喜びに溢れた人生に変えたいとお思いになりませんか。そのことが、あなた自身にどんなに難しく見えても、神は助けてくださいます。神は最後には目指す地に導いてくださることを信じて、勝利を先取りしながら、新しい年の歩みを始めましょう。」と言われます。新年早々能登半島震災が襲いました。多数の死亡者、被災者が出て悲しみに打ちしおれています。かつてイスラエルの民が苦難と試練に直面した時、「お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに導き養ってください。」と祈りましたように、救いの神に祈りを献げます。