与えられたテキストはマタイ福音書4章18-25節です。19節、20節に、「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」とあります。21節、22節には、「そこから進んで別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」とあります。25節には「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来て、イエスに従った」とあります。この「従った」は、ギリシャ語で「アコリュセオー」と言い、「同じ道を歩む、ついてゆく、堅く結びつく、弟子になる」という意味があります。マタイ福音書の特色ですが、この「アコリュセオー・従いなさい」という言葉を用いないで、「わたしについて来なさい」、ギリシャ語で「デユーテ・オピソー」を用います。「同じ道を歩む、結びつく、つながる」という意味があります。つまり、マタイ福音書は「イエスはペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの四人に、『わたしに従いなさい。わたしの弟子にしよう。』とは言わないのです。「わたしについてきなさい、わたしに結びつきなさい、わたしにつながりなさい。人間をとる漁師にしよう。」と言うのです。因みに、「従う」は、「同じ・アコリュ」と「道・セオー」という二つの言葉からなっています。そこから、「同じ道を歩む、堅く結びつく、生死を共にする」などの意味があります。「わたしにつながりなさい。わたしと生死を共にしなさい。わたしの弟子にしよう」となります。つまり、イエスに従う従い方は多様であり、いろいろと異なり、違いがあり、自由があるというのです。本質は、イエスと生死を共にし、堅くにつながり、堅く結びつくことです。
マタイ福音書が、23節以下のガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の病人が来て、イエスに癒され、従った物語を、ペトロ、ヤコブら四人の物語と併記しているのは、四人の物語が単なる弟子や伝道者になる勧めとして読まれないようにという意図があるのではないかと思います。マタイ福音書は「人間をとる漁師にしよう」という言葉を用いて、「弟子にしよう」と言いません。それは、イエスに従うことが、弟子になるとか、伝道者になるとかということではなく、もっと広い意味と多様性を持っている事実を伝えようとしているのではないかと思います。
マルコ福音書五章ですが、悪霊にとり憑かれた人がイエスによって、悪霊から解放される物語があります。悪霊から解放された者が、「イエスに従いたい」と願い出ると、イエスはそれを拒み、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じます。その人は黙って立ち去り、イエスが命じた通り、イエスが自分にしてくれたことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めたといいます。この悪霊から解放された人の物語は、イエスについて行くこと、イエスの弟子になることの多様性と目的と意味を表していると思います。イエスに従うことには多様性を有し、意味と目的があり、本質はイエスが自分にしてくれたことを明らかに語り、与えられた場所でイエスの御栄のために生きることである。そして、その生き方は自由で多様性を有しているというのです。
マタイ福音書は、イエスに従った多くの人々が、その後、どういう働きを、どういう功績を残したのかについて、何も記していません。記していないことは関心がないということではないでしょうか。つまり、「なにかをする、なにかを行う、to do to work」に本質ことではないということではないでしょうか。「従う」という言葉には、「同じ道を歩む、堅くつながる、結びつく」という意味があります。つまり、本質的なことはイエスと堅く結びついて存在する、イエスにつながって生きることは、多様であり、自由であるというのです。
24節に、「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取り憑かれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」とあります。聖書時代は医学も科学も進歩し、発展していませんでした。イエスのところ連れて来られた人々は、なにかに取りつかれたように、正しいことを選択できる主体性を失っていました。つまり、洗脳、思い込み、迷信、偏見に囚われ不自由な生き方をしていました。イエスは、彼らを不自由にさせているサタン的な諸霊と戦い、打ち克ち、病人を解放し、主体的、自律的に生きる存在にしました。言い換えれば、罪の奴隷から解放し、自由な存在にしたのです。
ペトロとヤコブら四人とイエスとの出会いの物語は、イエスの悪霊のサタンを追放するイエスを伝えています。イエスが彼らに出会うと、求めたことは「捨てる」ことです。彼らは網を捨て、舟を捨て、イエスに従いました。網も、舟も、彼らにとって大事なものです。失ったら生きていけないと思っていました。それらを「捨てる」のです。この「捨てる」には「離す」という意味があります。彼らは、手を離したら、立っていること、生きていくことができないと思っていました。しかし、イエスの言葉に促されて、離してみました。すると、倒れませんでした。イエスが支えているからです。イエスの言葉を信じていれば、離しても、倒れること、沈むことはないというのです。
マタイ福音書19章に出てくる「富める青年の物語」は見えるものしか信じることができない、見えない神を信じることのできない青年の物語です。物や富はギリシャ語で「マナモス」と言い、「頼りがいのある」という意味です。「マナモス」は、人を物や富に執着させるサタン的力をもって、手離すことができないようにさせます。つ舟や網は人を執着させ、思い患わせ、葛藤させ、不安に陥らせ、孤立させます。イエスは「マナモス」から手を離すこと、捨てることを求めます。しかし、「捨てる」ことが目的ではありません。真の支えである永遠の命を見出し、信じることが目的です。エゼキエルも「捨てる」ことを勧めています。「あなたを飾り立ててきたさまざまな持ち物を捨て、神の御前に、あなた自身となって、立て。また、この世の富と物への執着から解放され、世の恐れから自由に生きる道がある」と言います。フィリピ4章11節に「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」と言っています。信仰が与える精神の自由です。神はわたしたちを本来の道から逸脱させるあらゆる罪、自己絶対化、傲慢、自己卑下、思い患いから解放し、本来の生きる道を歩ませてくださいます。