2024年1月21日「試練に打ち克つ主イエス」 マタイ福音書4:1-11 

 与えられたテキストはマタイ福音書4章1ー11節です。イエスが荒れ野でサタン・悪魔の「試み」を受ける物語です。1節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野に行かれた。」とあります。「霊に導かれた」の「霊」ですが、イエスが洗礼を受けたときに、天からハトのよう降ってきた「神の霊」のことです。理解し難いことですが、神の霊がイエスを荒れ野に導いたというのです。「荒れ野」は、イスラエルの人々のエジプト奴隷時代に、エジプトを脱出し、逃れ、生きるために旅した砂漠と荒地です。食べ物、飲み水のない荒地と砂漠ですから、イスラエルの人々の命を奪い、苦しめた土地です。その荒れ野に神の霊がイエスを導いたというのです。不条理なことです。神は愛の神ですから、イエスを荒れ野に導くことはあり得ないことです。それを導いたというのですから、そこには深い意味と目的があるはずです。 

3章13節に「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに来られた。彼から洗礼を受けるためである。」とあります。イエスは荒れ野に導かれる前、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。3章17節に「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。イエスは神の「わたしの愛する子」です。神が愛する我が子、荒れ野に導き、サタン・悪魔の誘惑に遭わせる。これ以上の不条理な、理不尽な、矛盾していることはないと思います。しかし、福音書は、霊の神がイエスを悪魔の誘惑に会わせるために荒れ野に導いたというのです。ヨブ記には、病気の苦しみと痛みの意味と目的が分からないで、悩み苦悩するヨブが記されています。イエスは苦しみますが、ヨブとは違い、他人を救うなめの苦しみであり、サタン・悪魔の誘惑に打ち克たなければならないという信仰をもっていました。4節に「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。」とあります。この「受けるため」は「受けねばならない」と訳されます。イエスがサタンの誘惑を回避したら、メシア・救い主なることはできません。「受けなければならないのです。「神の必然」を意味します。

イエスの荒れ野の誘惑に対照するのが、創世記のアダムとエバの蛇の誘惑物語です。蛇はエバを誘惑し、「神は、園のどの木からも食べてはいけないなどと言うはずはありません」と言います。すると、エバは「神は、『園の中央に生えている木の実だけは、食べてはいけない。それを食べると死ぬ』とおっしゃいました」と言います。すると、蛇は「決して死ぬことはない。食べると、目が開け、神のようになれます。神はそれを望んでいます。食べると、美しく、賢くなれます。」と誘惑します。遂に、エバは、食べてしまいます。エバは一緒にいたアダムに与え、アダムも食べました。アダムとエバは、神に創造された人間として生きるためは、蛇の誘惑に打ち克たなければならなかったのですが、蛇の誘惑に負け、食べてしまいました。その結果、死と罪と虚無と孤独とが入り込み、苦しむことになります。その罪と絶望から救うために、第二のアダムであるイエスが遣わされました。悪魔の誘惑に打ち克つことが、主イエスの、第二のアダムの使命と目的です。また、同時にイエスを信じる者に与えられた使命と目的であるというのです。

3章16、17節に「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのたとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」とあります。この「わたしの心に適う者とは」は、イザヤ書42章や53章に記されている「苦難の僕・メシア・救い主」です。人の救いのために苦難を負い、自分を犠牲にする十字架の苦難と死の救い主です。イエスは、人の救いのためにすべての苦難を負い、十字架を負うことによって、サタン・悪霊の誘惑に打ち克ち、救い主になられました。しかし、苦難の僕であるイエスを拒む者が多く存在しました。

マタイ福音書16章21節以下に、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』。イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている。』。それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』」とあります。イエスは与えられた意味と目的を信じ、受容し、十字架の苦難と死を負い、十字架の道を行くことを心に決めました。そして、サタン・悪魔の誘惑に打ち克ちました。4章3節に「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答えになった、『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』」とあります。9節には、「『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。すると、イエスは言われた。『退け、サタン。あなたは神である主を拝み、ただ主に仕えよ』とかいてある。」とあります。サタン・悪魔はイエスに、世のすべての繁栄と権力を見せ、「誰にも支配されることなく、気兼ねすることなく、王のように絶対者になることができる。十字架の道を捨て、世の栄光に満ちた道を歩め。」と誘惑しました。イエスはその誘惑にも打ち克ちました。

26章39節に「少し進んで行って,うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」とあります。イエスは神の御心が適うことがおこなわれますようにと神に祈り、主権を神に譲っています。そのために、苦しみもだえ、汗が血のしたたるように地面に落としながら戦いました。言い換えれば、神が自分のためにあるのではなく、自分は神のためにある。自分のために神を用いるのではなく、神のために自分を用いられる。そこに本当の命、救い、希望がある。神は、その真理を明らかにするために、イエスを荒れ野に導き、悪魔の戦いを受けさせただというのです。わたしたちも、生涯で、いろいろな苦難に出会い、不条理、理不尽と思えるようなことが身に起こります。福音書はそれらは神の試練、神の誘惑であるといいます。神の愛するイエスも、誘惑と試練に出会いました。それは神の栄誉と愛を賜るために、欠かせないことであったというのです。ヘブライ12:5に「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主からの懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、むち打たれるからである」とあります。厳しい言葉ですが、信じ受け容れたいと思います。わたしたちが人生で経験する苦しみ、悩み、試練には、神の深い意味と目的があると信じたいと思います。4章4節に、「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるのではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とあります。サタンと闘うときの武器は神の言葉であるといいます。16節に「すると、イエスは言われた。『退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」とあります。わたしたちの戦う武器は、人間的な業績や資質ではなく、誰もがもつことができる神を信じる信仰であると言います。ヨハネⅠ5:5に「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」とあります。イエスの言葉を信じて、イエスのあとをついて行きましょう。