2024年10月20日「恐れるな。見よ。主を。」イザヤ35:1-10 コリントⅠ15:57-58

イザヤ書35章の背景は、バビロン捕囚です。南ユダ王国は紀元前597年、北イスラエル王国は587年にバビロンのネブカドネザル王の侵略に敗れ、捕囚民としてバビロンに連行され、捕囚されました。そして、538年ペルシャのキュロス王の捕囚釈放令によって解放れ、エルサレムに帰還しました。50年間捕囚ですから、捕囚民は高齢になりました。エレミヤの勧めにもありましたように、当地で結婚し、子どもが与えられた者もありました。家を建て、畑を得て、バビロン生活に順応した人々もありました。しかし、多くの者にとっては、捕囚生活は過酷で、苦難でした。キュロス王の捕囚釈放令が出ましたが、バビロンからエルサレムまでは二千キロ、その間はシリア砂漠と荒れ野が横たわり、帰還は苦難であり、容易なことではありませんでした、特に、老いた人や身体の不自由な人には不可能に見えました、5、6節に、「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき。歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒地に川が流れる。」とあります。年老いた人、見えない人、病気の人など、多くの人は、シリア砂漠を越える帰還は不可能で、バビロンに残らざるを得ないと諦め、絶望し、打ちひしがれていました。ところが、不思議な事実ですが、ヤッハウエの神は超えるはできないと絶望していた砂漠と荒れ野を越え人々をさせたのです。

1節に「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。」とあります。「荒れ野、荒れ地、砂漠」は、植物や動物を近づけさせないほど厳しい環境です。しかし、冬が過ぎ、早春になるとに、水仙、サフラン、野ばらが一斉に咲きます。それは人間の業ではなく業としか思えない、神の力を信じ讃えることができる、と言われます。

2節に「花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光とわれらの神の輝きを見る。」、ルカ福音書18章27節に「イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる。』といわれた。」とあります。カルメルは地中海に沿った、一面緑豊かな森林です。シャロンはカルメル山麓にある地中海沿いの豊かな平野で、早春になると、一面にサフランと水仙が咲きます。その光景を創造するのは人間には不可能です。しかし、神にはできるというイエスの言葉を思い起し、勇気と希望とが与えられます。

8節に「そこに大路が敷かれる。 その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々が底を進み、主に贖われた人々は帰って来る。」とあります。神はあらゆるエルサレム帰還の障壁を取り除かれ、創造の御業を起こされる。だから、「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。雄々しくあれ、恐れるな。」と言います(3、4節)。この「雄々しくあれ、恐れるな」という神の言葉は、イスラエルが危機に直面したときに、掛けられます。そのとき、「恐れるな、雄々しくあれ、わたしはあなたの盾になる。」という神の言葉が与えられます。出エジプト記4章13節に、「モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちに行われた主の救いを見なさい。』」あります。エジプトの王ファラオが、イエラエルの人々の脱出に気付き、追跡します、前方には行く手を阻む葦の海があり、背後にはエジプト軍が迫り、イスラエルの人々は絶体絶命の危機に直面しました。そのとき。モーセは民に答え言葉です。

出エジプト14章10-14節には「ファラオは既にユニ間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び、また、モーセに言った、『我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導きだしたのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください、自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです。』と言ったではありませんか。モーセは民に答えた。『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われた主の救いを見なさい、あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」とあります。イスラエルの人々がエジプト人の奴隷から解放され、逃れる途中、度々危機に直面し、嘆き悲しみ、絶望したとき、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」と勇気づけ、希望を与えています。

ヨシュア記1章9節には、「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない、あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」とあります。神は、バビロン捕囚帰還の途中、激しい流れのヨルダン川を前にして、恐れ、躊躇しているイスラエルの民に「主は共にいる」と勇気づけ、希望を与えています。

イザヤ書35章4節に「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』」とあります。「見よ、あなたたちの神を」とは「厳しい現実のためにうなだれる目を、神に向け、希望を見出せ」と、「救われる」は、「苦労、苦労が報われる」という意味です。バビロン捕囚から魂、霊の故郷であるエルサレムに帰って来たけれど、エルサレムは崩壊し、神殿も腐敗し、ヨシヤ王の改革も頓挫したままで、その現実に失望落胆しました。自分たちの苦労は一体何だったのか、徒労ではなかったか、人生を否定し、諦め、絶望する帰還民に、イザヤは「神は来て、あなたたちを救われる。あなたたちの労苦は報われ、肯定される。顔を神に向け、勇気を出しなさい。」と言います。

コリントの信徒への手紙Ⅰ15章57、58節に、「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に 感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」とあります。フィリピの信徒への手紙Ⅰ2章16節には「わたしは自分が走ったことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができる。」とあります。パウロは福音伝道の労苦は決して無駄になることはない、信仰による救いがある、と言います。

イザヤ書35章10節に、「喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」。」とあります。「嘆きと悲しみは逃げ去る」は「過去のものになった、過去にこだわらなくてもよい」という意味です。悲しみもため息も皆過去のものとなり、あるものは喜びと楽しみだけである。「その時」です。見えない人の目は開き、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる、その時です。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」。コヘレトがいう「時」です。その終末論的な救いの「時」を目指して歩んでいきたいと思います。