2024年10月27日 「立ち帰って、生きよ」創世記9;8ー17 エゼキエル18:30ー32

創世記6,7,8,9章の4章にノア物語があります。多くの資料で構成されているため、複雑な物語で、多様なテーマです。大筋は神の裁きと救いです。地上に人の悪が増し、常に心に思うことは悪いことばかり、神は悪いことを思い計っている人を御覧になって、人を創造したことを悔い、地上の全てのものを一掃しようされました。40日間、豪雨を降らせ、洪水で地上から全てを滅ぼそうとしました。40日で豪雨は止み、水は引きました。ノアが鳩を放すと、帰って来ませんでした。ノアとその家族と全ての生き物が箱舟から出てきました。ノアとその家族と、神が創造されたものはすべて救われました。

9節に「わたしは、あなたたちと、そして、後に続く子孫と契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべての獣と契約を立てる。よってわたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことは決してない。」とあります。「契約を立てる」の「立てる」は「決心する、確認する」という意味です。また、ヘブル語では、過去完了形で、現在も継続していることを意味します。「二度と洪水によって、滅ぼすことはない」は「never  again、二度とない」という意味です。神は洪水を起こし、滅ぼすことは二度とないと、強い意志をもって約束されたというのです。

13節に「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」とあります。「虹」は「弓」のことでしたが、やがて、「契約する、約束する」という意味になります。「虹を置いた」は「弓を置いた」となり、意訳すると、「和解する」となります。また、「虹」は、ヘブル語で「ケセト」と言い、動詞になると「腰を屈める、お辞儀をする、屈服する」という意味になります。つまり、神が腰を屈めて約束を交わし、契約したというのです。「契約、約束」は、ヘブル語で「リヲート」と言い、神が保証する約束、契約を意味します。つまり、神は二度と洪水を起こさない、裁かないと決心され、身をかがめて約束されたというのです。ここで注目したいのは、人が罪を悔い改めて、正しい人間になったから、契約したのではありません。人の思うことは悪いことばばかり、依然として罪と悪を重ねています。しかし、神は罪深い存在である人間を裁くことはないと約束されたのです。

エゼキエル書18章31、32節に、「『お前たちが犯したあらゆる背きを捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ、イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ。』と主なる神は言われる。」とあります。「わたしはだれの死をも喜ばない」の「だれ」は、直訳すると、「死ぬ者」という意味です。カトリック教会訳では「いずれは死ぬもの」と訳されています。意訳すれば、「いずれは死ぬ、死んで朽ち果てていく宿命を負った者の死を喜ばない、どんなことをしてでも、生きよ。したたかに生きよ。」となります。

浅野先生は、「膝を屈める神について、自分がどんなに駄目だと思っても、人がら、駄目だと言われても、神は『よし』と肯定する。エゼキエルが聴き従えと勧める神は、神自ら腰を屈める神である。」と述べています。

詩人の伊藤比呂美さんには「読み解き般若心経」という著書があります。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という親鸞の言葉が大好きだそうです。伊藤比呂美さんにはヒロコという娘さんがおられ、そのヒロコさんを題材にして「ヒロコ殺し」という詩があります。恐ろしい詩です。本が出版されると、父親から「比呂美、お母さんが悲しむから、こういうことを書くんじゃない。」と叱られ、母親から「これなに? こういうことを書くと、お父さんが泣くから、やめて。」と言われたそうです、伊藤さんは「両親を悲しませるような作品ばかり書いている」と言っています。アメリカ生活をされたこともあるそうです。「年老いた両親を残して、アメリカくんだりまで行っちゃった」と自嘲気味に言っておられます。わたしはいやなことも悪いことも山のように積み重ねてきた。わたしこそ救いから一番遠い人間です。しかし、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉に至りました。どうしようもない罪人こそ救われるという教えですと述べています。

13節に「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる、」とあります。「虹」はヘブル語で「ケセト」と言い、動詞になると「腰を屈める、お辞儀をする、屈服する」という意味です。人間からお辞儀をするのではなく、神が腰を屈めて、お辞儀をするのです。「大地に立てた契約のしるしとなる」の「契約」は「ベリート」と言い、神が一方的に保証する約束を意味します。神がこの世界を最後まで、保証し、保護するという約束です。神は二度と裁かないと決心された。その決心は、人類が罪を悔い改めて、正しい人間になったから、その見返りとして裁きを止めたのではないというのです。

創世記8章21節に「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」とあります。人間は依然として罪と悪を重ねています。悔い改めのできる人間ではありません。罪と悪に染まりきった人間です。しかし、神は、そのどうしようもないほどの罪深い存在であることを承知の上で、もう、大地を呪って生き物を全滅させるようなことはしないと約束されたのです。

イザヤ書54章7、8。9節に、「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる。これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にとってノアの洪水を起こすことはないと、あのとき誓い、今またわたしは誓う。再びあなたを怒り、責めることはない、と。山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず、わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる。」とあります。

この「深い憐れみ」は「アガペーの愛、無償の神の愛」です。パウロ的に言えば、神の一方的な恵み、憐れみ、救いです。神は人間の罪深さを十分に承知の上で、裁きを下すことはなさらないのです。それがノアの洪水物語のメッセージです。神は決して滅ぼさないと心に決めて契約を立てられました。神は「わたしはだれの死をも喜ばない、お前たちは立ち帰って、生きよ」と肯定してくださる。わたしたちは神の肯定があるから、生きることができると思います。どうしようもない程、汚れきった存在ですが、神は「立ち帰って 、生きよ。」と、勇気と希望を与えてくださいます。失望落胆しないで、希望を持って生きて行きたいと思います。