2024年11月10日  「神の輝く勝利」 エレミヤ20:7-18 ローマ8:35-39

与えられたテキストはエレミヤ書20:7-13です。エレミヤが活躍したのは、南ユダ王国のヨシヤ王の時代です。ヨシヤは信仰深く、熱心で、信仰の復興と宗教改革を行いました。しかし、その改革の途上、メギドの戦いでエジプトのパロ・ネコに敗れ戦死しました。その後、即位したヨヤキム王はヨシヤ王の宗教改革で一掃したバアルの偶像礼拝を再び活発化し、エルサレムにバァルの神殿を建設し、各地にもバアルの神の聖所を建て、バァルの神礼拝を絶対化し、ヤハウェの神礼拝を排斥しました。ユダ国内は腐敗し混迷に陥りました。1章13節に「主の言葉が再び臨んで言われた、『何が見えるか』わたしは答えた、『煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。』とあります。北方では、バビロンのネブカドネツァル王が勢力を拡大させ、エジプトのパロ・ネコを倒し、パレスチナの覇者となり、北イスラエルに侵略し、更に、南ユダ王国に迫ってきました。南ユダ王国は国家滅亡の危機に直面しました。その厳しい状況の中で、エレミヤは預言者として召され、神の言葉を語り、ヨヤキム王やゼデキヤ王や指導者の不信仰を糾弾し、悔い改めを迫りました。そのためにエレミヤはヨヤキム王の怒りを買い、憎まれ、弾圧と迫害を受けました。「バビロンを頼れ、エジプトに援助を求めよ。われわれにはバァルの神があるから、滅びることはない。」と偽りの預言を語り、ヨヤキム王を支持する偽預言者が現れました。世は不条理で、矛盾しています、偽預言者が受け入れられ、信仰と悔い改めを迫るエレミヤが排斥され、迫害されるのでした。7節に「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを罵ります。」とあります。エレミヤは孤独の苦しみを告白しています。8節には、「わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉を語るがゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません。」とあります。エレミヤはヨヤキム王から裏切り者、偽善者と罵られました。エレミヤは「もう、神の言葉を語りません。預言者をやめます」と言って、意気消沈し絶望しました。9節には、「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまいと思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」とあります。主の言葉は不思議な力強さを持っています、エレミヤは、「わたしは負けです。」と告白しています。原文には、「しかし」という接続詞があります。意訳すると、「主の名を口にすまい。語るまいと心に決めた。しかし、主の言葉は、わたしの骨の中で、火のように燃える。」となります。主の言葉は廃人のように意気消沈し絶望しているエレミヤを生まれ変わらせ、立ち上がらせたのです。「主の言葉」の「言葉」は、ヘブル語「ダーバール」と言い、「事を起こす力、死人を生かす力」うという意味があります。コリントの信徒への手紙Ⅰ1章18節には、「十字架の言は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われた者には神の力です。」とあります。パウロは「主の言葉は力である」と言います。このため「力」は、ギリシャ語で「デュナミス」と言い、全てを破壊する「ダイナマイト」の語源です。神の言葉は「全てを破壊する。全てを生み出す力」です。アブラハムは、「故郷と父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」という神の言葉(ダーバール)に促されて、住み慣れたハランを捨てて、出立します。死んで墓に納められたラザロは「ラザロよ、出てきなさい」と命じるイエスの言葉によって、起き上がり、墓から出て来また。5章13、14節には「剣も飢饉も起りはしない。預言者の言葉はむなしくなる。『このようなことが起こる』と言っても、実現はしない、それゆえ、万軍の主なる神はこう言われる。『彼らがこのような言葉を口にするからには、見よ、わたしはわたしの言葉を、あなたの口に授ける。それは火となり、この民を薪とし、それを焼き尽くす。』」とあります。主の言葉はエレミヤの心の中に入り、火のように激しく燃え、エレミヤを立ち上がらせ、語らせたというのです。パウロ的に言えば、イエスの福音は、語れと律法に定めているから語るのではなく、語らずにはいられないから、語るのです。 エレミヤが立ち上がり、神の言葉を語ると、一段と厳しい迫害が加えられました。ヨヤキム破壊エレミヤを捕らえ、鞭打ちの刑を執行し、ベニヤミンの門に拘束し、大衆のさらし者にしました。エレミヤは預言者として危機と窮地に立たされました。しかし、その窮地から救い出したのが。何時も、何処でも共にいるヤッハウエの神です。

10、11節に、「わたしの味方だった者も皆、わたしがつまずくのを待ち構えている。『彼は惑わされて、我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう』と。しかし、主は恐るべき勇士として、わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき、勝つことを得ず、成功することなく、甚だしく辱めを受ける」とあります。 この「主」は「ヤッハウエ」と言い、わたしは在って在るもの、あなたが何処に行こうと、どこに行かれようと、あなたと共にいる神」と自らを現した神です。エレミヤにどのようなことがあっても、共にあって、寄り添い、守る、贖いのために自からの命を献げる神です。エレミヤは、共なる神・ヤハウェに支えられて、恐れることなく、神の言葉を語ることができました。エルサレム崩壊と捕囚の嵐の中を真の預言者として生き抜くことができました。

13節に、「主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を、悪事を謀る者の手から助け出される。とあります。原文では、文頭に「救い出す」があり、「必ず救い出す」と強調しています。エレミヤがたびたび窮地に立たされましたが、その度に、助け出された経験に基づいた「救い出す」を意味します。言い換えれば、「どのようなことがあって必ず救い出す」となります。この「助け出す」はヘブル語で「ナーツァル」と言い、エレミヤが召命を受け入れたとき、与えられた言葉です。エレミヤ書1章8節「『彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。』と主はいわれる。」とあります。召命のときに与えられた神の言葉で、生涯ずっと信じました。「救い出す」は「勝利を与える」という意味があります。エレミヤは、神に召されたために、艱難と苦難と孤独な生涯を歩まなければなりませんでした。しかし、最後は、神を賛美し、輝く勝利に預かることができました。ローマ8章35-39これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」とあります。イエス・キリストは、その人の人生が、どのようなのであっても、最後は、主をほめたたえる歌声で終わらせてくださいます。エレミヤのように苦難を担い、嘆き続けながらの歩みであっても、主イエスが見てくださって「良し」とし、輝く勝利を与えてくださいます。小さい者を愛する神が、遣わされたところで忠実に歩んで行きたいと思います。