与えられたテキストはサムエル記上16:1-13で、ダビデが神に選ばれ、イスラエルの王に任命されたところです。12節に「主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。」とあります。「油が注がれる」は王に選ばれ。任命されることを意味します。エッサイ家の七番目の羊飼いの子、祭司サムエルがその存在を知らなかったダビデが王に任命されたのです。新共同訳の7節には、「しかし主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』」とあります。協会訳は、「しかし主はサムエルに言われた、『顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。』」です。新共同訳は、協会訳の「主は心を見る」を、「主は心によって見る」と訳しています。その翻訳の相違に信仰の特色があると思います。創世記4章に「カインとアベルの物語」があります。神はカインの献げ物を拒否し、アベルの献げ物は喜び受けます。何故カインは拒否され、アベルが受け入れられたか。その理由は記していません。一般的には、神はカインとアベの二人の心、カインは嫌々ながら献げた、アベルは喜んで感謝して献げるのを見て、カインを拒み、アベルを受け入れた。アベルのように喜んで、感謝して献げなければならない、と、教訓的、道徳的に解釈されてきました。しかし、もう少し多様な解釈ができるのではないか、と思いながら16章のダビデの召命物語を読んでみました。新共同訳は、協会訳の「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」を「主は心によって見る」と訳しています。「心よって見る」と訳したところに信仰的特色があると思います。「心によって」の英語訳は「judge by the heart」です。「心・heart」は、「中心、真ん中、核心」という意味です。つまり、「人の存在の中心、中核、核心、無くてはならないもの」です。言い換えると、「神の言葉、神の愛、神の赦し、神の憐れみ」です。7節を言い換えると「しかし主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は神の言葉と神の愛によって見る。』」となります。コリントⅠ1:26以下に、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」とあります。神は、世の無学な者、世の無力な者、世の無きに等しい者を敢えて選び召し、受け入れてくださいました。パウロはどういう時代が訪れようと、どういう状況に置かれようと、信仰的事実を素直に受け入れることを勧めています。コリントⅡ4:18に、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」とあります。パウロは、わたしたちは本質的なことは見ることができませんが、神の言葉は、見ることのできない存在の意味や目的をわたしたちに啓示し、受け入れさせてくださる、といいます。ダビデはベツレヘムのエッサイ家の7人兄弟の末っ子です。ベツレヘムは、ユダ氏族の中でも最も小さな家柄で、エッサイも貧しい羊飼いです。サムエルが新しい王を選ぶためにエッサイ家を尋ねますが、ダビデがいることを知らないのです。父親のエッサイもダビデが選ばれるとは思ってもみません。ですから、羊の世話をさせていました。そういうダビデが召されたのです。つまり、神の選びと召しは、家柄とか、業績とかにとらわれないのです。人間が関与できない神の権限です。その意味では、わたしたちにははかり知れない、神のみが知る事柄です。わたしたちは、ただ信じて、謙遜に、受け入れていくだけです。浅野順一先生は、「『選び』はわたしたちには分からない。神の権限です。他人がどうのこうのではありません。ただ自分が選ばれている事実を積極的に受け入れる。何の資格も、功績もないのに、神は選んでくださっている事実に感謝し肯定する。決して、自分は選ばれていないと否定的、消極的に考えてはならない。否定的に、消極的に考え、主の言葉を受け入れないならば、不幸なことです。」と言います。サウルは、神から「アマレク人を討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ」と命じられます。しかし、サウルは、その神の言葉に従わないで、彼の部下たちの「値打ちのないもの、つまらないものは滅ぼし、良い物は残しておき、神に献げましょう」と言う言葉に従いました。間違っていません。正論です。それでも、サウル王は退けられたのです。不条理に見えます。それほど、神の言葉に徹底的に、全幅信頼することが求められます。サウルは、「主は油を注いで、あなたをイスラエルの王に選んだ。あなたはイスラエルの頭ではないか。」と言われる程神の選びを重大に考えませんでした。そういう者ではない、取るに足らない者だと、自己卑下して、神の言葉から逃避するのです。選ばれた者ではない、自分にはできないと自己卑下し、神の言葉を軽んじたのです。しかし、主は弱く、貧しい者を用いようとます。マタイ福音書5章に「タラントンの譬え」があります。1タラントンを与った者が、神は恐ろしい方だからと、与った1タラントンを地下に隠しておき、決算の時に、1タラントンのまま返しました。すると、主は「役立たずの僕を外の暗闇に追い出せ」、と叱責した。選ばれている事実が信じられない、悲観的に、消極的に、自分を卑下して、神の御心に、選びに答えられない者、選びを否定する者に対して、厳しく臨まれます。イザヤは、補囚の民が虫けらのような者だと自己卑下しているとき、「わたしの目にはあなたは値高く、貴い」と言って、選ばれるという信仰から生まれる希望と勇気を伝えています。ヨハネ福音書15章16節に、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと。」とあります。神の「選び」には積極的な意味と目的があります。ペトロの手紙Ⅰ2章9節に、「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民。神のものとなった民です。それはあなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」とあります。イエスの力強い御業を広く伝えるために、選ばれ、聖霊を注がれている。そのことを信じて、従いたいと思います。