イエスの降誕を祝うクリスマスを迎えました。幼子イエスをお迎えすることができた喜びをお確認し、御病気の方々、試練の中におられる方々のことを覚えて祈りの時をもちたいと思います。与えられたテキストはルカ福音書2章8ー20節です。ルカ福音書2章10,11節に「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」とあります。11節の「あなたがたのために救い主がお生まれになった」の「ために」は、原語では、「中に、すなわち」という意味の接続詞です。意訳すると、「あなたたちの心の中に救い主がお生まれになった。」となります。また、「生まれる」は「受け入れる」という意味があります。意訳すると、あなたがたの心の中に救い主を受け入れたとなります。榎本保郎先生は「あなたの心の中にキリスを受け入れたとき、キリストが誕生する。その時があなたにとって、上からのクリスマスである、キリストに出会い、キリストを愛し、キリストを受け入れる。それがキリストの誕生、クリスマスである」と述べています。浅野順一先生は、「イエスが心の扉を叩き、その人が心の扉を開き、イエスお迎え入れる。それが、その人にとってのキリストの誕生であり、クリスマスである」と言っています。
ヨハネ黙示録3章20節に、「見よ、わたしは戸口に立って叩いている。だれでもわたしの声を聞いて、戸を開けるなら、その中に入って食事を共にする。」とあります。この場面を描いたホルマン・ハントの「戸口に立たれるイエス」という絵画があります。クリスマスの季節になると礼拝堂に飾られていました。その作品にも描かれているのですが、主イエスが叩いている戸の外側には、ノブがありません。つまり、中の人が戸を開けなければ、外から入ることはできないのです。主イエスは心の扉を開かなければ、入ることはできません。キリストの信仰の原点、本質です。あなた心の扉を開くことをイエスは待っておられます。心の扉を開いて、馬小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされているイエスを心の中に受け入れる。それがイエスの誕生、クリスマスです。
ルカ福音書19章1節以下に、「ザアカイの物語」があります。ザアカイはローマ人に雇われていた収税人のため、皆から疎外され、嫌われていました。背丈は子どものように低い。それらが彼を苦しめ、孤独にさせていました。ある日、ザアカイは、イエスがエリコに来られることを知り、ました。見に行きました。しかし、背丈が低いために群衆に遮られてイエスを見ることができないので、近くのいちじく桑の木に登って待っていました。そこにイエスが来られ、ザアカイを見つけたのです、神のみ旨です。イエスは、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。と言われました。すると、ザアカイは急いで降りて来て、イエスを喜んで迎えました。この「迎えた」は、ギリシャ語で「デコマイ」と言い「受け入れる」という意味です。つまり、ザアカイは、心の扉を開いて、イエスを受け入れたのです。すると、イエスは、ザアカイに対して、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われます。この「訪れる」は、「生まれる」という意味です。意訳すると、「今日、救いがこの家に生まれた」となります。ザアカイがイエスを受け入れると、救いが生まれる。その意味では、ザアカイのクリスマスと言うことができるのではないでしょうか。
ドストエフスキーは国家転覆罪で死刑の判決を受けました。しかし、死刑執行の直前に恩赦が出て、死刑は免れ、シベリアの強制収容所に送られることになりました。シベリアに連行される途中、仮眠するために或る警察署で立ち寄り、一晩留置所に収監されました。ドストエフスキーは眠れないで、壁にもたれ、茫然と一点を見つめていました。その時、看守が見回りにきました。看守は、「辛抱しなきゃあいけないよ、キリスト様も、お苦しみになったんだからね」と、ドストエフスキーに言ったそうです。その言葉は、ドストエフスキーの心に深く届いたと言うのです。ドストエフスキーは、ルカ福音書のザアカイのように、その言葉に心に留めて、思いめぐらしました。心の中で繰り返し、繰り返し思い起こしたと言います。翌日、クリスマスです。近くの教会の婦人会の人たちが警察署を慰問に来られ、一人ひとりに、新約聖書をプレゼントされました。ドストエフスキーも頂きました。ドストエフスキーは、4年間のシベリア収容所生活の中で、エゼキエルのように、新約聖書を食べるように読んだそうです。「馬小屋に生まれ、布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされたキリストだから、受け入れることができた」と言っています。「馬小屋に生まれたキリストと一緒に、立ち、倒れもしたい、生き、死にもしたい」と記しています。「生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば、主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と告白するパウロの言葉が真理であることを証しています。ドストエフスキーの中にキリストが受け入れられ、信仰が生まれました。それがドストエフスキーにとって、クリスマスになったのではないでしょうか。
20節に「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」とあります。「帰って行った」は、原語は「向きを変える、生まれ変わる」という意味です。つまり、彼らは、主イエスに出会うと、生まれ変えられ、神をあがめる者に変えられましたというのです。飼い葉桶に寝かされている幼子イエスは全く無力です。しかし、不思議なことですが、その無力な、幼子・イエスに、人を変える力があるのです。絶望している者が、希望を見出す者に変えられます。空しく生きている者が、生きる意味を持つ者に変えられます。罪許されて、全く新しい存在に変えられるのです。幼子イエスには、そのような神の力があります。ルターは、「彼らが帰っていったところに注目する」と言います。彼らの帰ったところは、宮殿でも、神殿でもない、依然として困難な問題を抱えた、暗闇の支配する荒れ野です。しかし、彼らの内側は新しく変えられています。どのような苦難にも勝利するという希望を持って、歩んでいます。
今日、クリスマスを迎えても、わたしたちの目に見える現実は何も変わりません。置かれている環境は依然と厳しいです。世の矛盾や不条理に押しつぶされそうです。だからこそ、神が、主イエスの誕生に示された救いの御業を思い起こし、何処に置かれても、神が共にいてくださることを信じて、歩みを始めたいと思います。クリスマス物語に登場する羊飼いたちも、3人の博士も、マリアも、ヨセフも、ザアカイも、心の扉を開いて、キリストを受け入れると、根本から変えられ、全く新しい歩みが始めました。クリスマスは、再出発の物語です。イエスと出会い、イエスを受け入れ、新しい歩みを始める。それがクリスマスを迎える意味ではないかと思います。