与えられたテキストはマタイ福音書9章27-38節です。イエスが二人の盲人をいやし、目が見えるようになりました。するとファリサイ派の人々の間で、イエスは悪霊の頭ではないかという論争が起こる場面です。30―34節に「二人は目が見えるようになった。イエスは、『このことは、誰にも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言った。」とあります。ファリサイ派の人々は「イエスは悪霊の頭と結託し、力を借りて、悪霊を追い出した」と、悪口を言い、ののしりました。しかし、イエスは彼らの悪口に対し、一言も言い返していません。この言い返さないイエスこそイスラエルの人々が待望しているメシア・救い主であるというのです。
イザヤ書53章6―8節に、「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」とあります。イエスは、預言者イザヤの苦難の僕の預言のように、ののしられても、ののし返さず、悪口を言われても、言い返さず、不思議に思えるほど沈黙し、また「空しい」と呟き、「悲しい」と嘆きません。口の利けない人や目の見えない人や、病人、苦しむ人に心を込めて仕えたのに、捕らえられ、十字架につけられ、命を取られました。ファリサイ派の人々は、真のイエスを理解できず、信じることができませんでした。イエスの労苦は報われません。それでも、イエスは絶望や人間不信に陥ったりしません。心を込めて愛のわざに励みました。イエスの姿は多くの人に不思議に見えました。その不思議に見えるイエスが、メシアとしての人格を表しているのです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ13章4,7節に、「愛は忍耐強い、愛は情け深い。ねたまない。不義を悦ばず、真実を悦ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とあります。パウロの「愛と忍耐」の賛歌にあるように、イエスはイスラエルの人々には不思議に見えるほど忍耐強く、愛に満ちていました。イエスは愛と忍耐の本質を啓示されました。その意味で救い主です。
マタイ福音書10章22節に「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」とあります。「耐え忍ぶ」は、「下に」と「とどまる」からなっていています。つまり、苦難の下に「踏みとどまる、持ちこたえる」という意味です。「救われる」は「終末的な希望、霊的に報われること」を意味します。イエスは信仰の本質である終末的な救いと希望を明らかにされました。テモテの手紙Ⅱ4章7節に「世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」とあります。パウロは「義の栄冠」はアスリートのように勝利者にならなくても、忍耐して完走した人に与えられる終末的栄誉、神の勝利であるといいます。つまり、主イエスの救いは、終末論的な救い、希望を意味します。主イエスは、終末的な希望と救いに基づいた忍耐をもって、苦難を乗り越えて行くというのです。その意味で、イエスはメシア・救い主であるというのです。
マタイ福音書9章35節に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、ありとあらゆる病気やわずらいを癒された」とあります。「ありとあらゆる」とは、「すべての人、一つ残らず」という意味です。罪人も、徴税人も、病人も差別はありません。一人残さずいやされたというのです。「町や村を残らず回って」の「回って」は、病人や患っている人々を見つけるために隈なく歩くことを意味します。止揚学園の創設時代は、重い障害を負った子や重い知恵の遅れた子は家の奥深くに隠されていたそうです。止揚学園はその子たちを見つけ出し、共同生活を始めたそうです。主イエスもそうでした。隠された病人や障害者を見出し、いやすために町々、村々をくまなく歩き回りました。ファリサイ派の人々には、イエスはどうして、あのように忍耐強いのか。報われることを求めず、愛の業に尽くされるのか、と。イエスは不思議な人物に見えたと言います。イエスは人を深く憐れまれる心をもっていたからです。
36節に「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。この「深く憐れまれる心」が、主イエスの忍耐強さと見返り求めないで人を愛する愛の業を生み出しました。主イエスの「深く憐れまれる」が主イエスの行動の原点、動機です。この「深く憐れまれる」は、ルカ福音書の15章の「放蕩息子の喩話」の20節の「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、深く憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」で用いられています。ギリシャ語で「スプランクナゼニサイ」と言い、「腸・はらわた」という意味で、「お腹を痛める」となります。国語では、「かわいそう、いとおしむ」という意味です。カトリックのフランシスコ訳は「哀・あい、哀れに思い」と訳され、「かわいそう、悲しみのために胸がつまり、切なく」と解釈されています。リビングバイブルは「イエスの心は、深く痛みました」となっています。本田哲郎訳は「はらわたをつきうごかされた」と、岩波訳は「腸がちぎれる想いに駆られた」となっています。原語は「内臓、はらわた、肝臓、腎臓」という意味です。動詞になると「はらわたがちぎれる想いに駆り立てられる。深く共鳴、共感する」となります。つまり、人の悲しみや苦しみに「腹・はらわたを痛める」という意味です。この「深く憐れむ」は、福音書で12回、それもイエスだけに用いられています。つまり、イエスの人格、人柄、救い主としての主イエスの特性を言い表しています。
主イエスは、力で支配する救い主ではなく、人の苦しみや悲しみに対して、腸がちぎれる想いに駆り立てられる、共鳴共感の救い主です。36節の「弱り果て」は、「自分の力ではどうすることも出来ない問題を抱え、苦しみ、悩む」ことを意味します。つまり、人生の不条理、矛盾の苦しみです。主イエスは、世の不条理や矛盾に苦しむ人を見て、腸がちぎられる思いをされるというのです。人の悲しみや苦しみに共感し、お腹を痛め、激しく心を動かし、救ってくださる救い主です。主イエスの救いの原点はそこにあります。
どの時代も、人は心を痛め、病み、心の彷徨を経験します。魂が渇ききってしまい、正に飼い主のない羊のように、どの方向に生きて行って良いか分からなく、迷います。主イエスはそのような人を見て、腸がちぎれる思いをされるのです。その事実は主イエスの十字架を見れば分かります。イエスは優しい心の救い主です。わたしたちが負えないところを、「わたしが負う」と、引き受けてくれます。マタイ福音書11章28節に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい休ませてあげよう。とあります。主イエスは「腸がちぎれる痛み」をもって、わたしたちの苦難に共感し、京目する優しい心の救い主・メシアです。