テキストはヨハネ福音書12章1-8節です。イエスにベタニアで香油が注がれる物語です。並行記事は、マルコ福音書14章3-9節、マタイ福音書26章6-13節です。場所はマルコとマタイでは、らい病人のシモンの家ですが、ヨハネ福音書は夕食を主催した人の家で、名前はありません。食事に招かれた人は、マルコ福音書とマタイ福音書では、名前は記されていません。ヨハネ福音書はマルタ、マリア、ラザロの三人です。イエスに香油を注いだ人の名前はマルコ、マタイにはありません。「一人の女が」と言って、マリアを想像させます。マリアを想像させることによって、香油を注ぐ働きが大きな救いの出来事であること、また、貧しいラザロの墓から復活が深い信仰的意味を持った出来事であると、言おうとしていると思います。
2節に「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた」とあります。「給仕をしていた」は、ギリシャ語で「デイアコイネー」と言い、「仕える」という意味で、名詞になると「仕える者、奉仕者、僕」となります。マルコ福音書10章43節に「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。わたしは仕えられるためではなく仕えるために来た。」とあります。その「仕える者、僕」に用いられています。イエスは「仕えられる者ではなく、仕える者になりなさい」と言い、「仕えられる」ではなく、「仕える」ことに真の命と真理があると言います。
ルカ福音書10章38節以下に、イエスがマルタとマリアの家を訪ねたことが記されています。マルタはイエスの接待に心を使い、忙しく働いています。ところが、姉妹のマリアは、何も手伝わないで、イエスの傍に座って、イエスの話す言葉に聞き入っていました。マルタは何も手伝わないマリアに不満を持ち、「自分はこんなに忙しく働いているのに。マリアは何もしません。マリアに手伝うように言ってください。」と、イエスに言いつけました。マルタは働く自分は正しいという思いと自己絶対化があり、マリアを裁きました。しかし、イエスはマリアを認め,肯定しました。「手伝う」は、ギリシャ語で「デアコイネー」と言って、「仕える、給仕する」という意味です。イエスは「仕えられるではなく、仕えること」に本当の命と真理がある。また、イエスの言葉を聞くことは「仕える」ことであり、イエスの言葉を聞くことに真の意味と真理があると言ってきました。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章10節に「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」とあります。パウロは神の恵みによって生かされているという信仰によって、生きることができると言います。マルタもイエスに出会い、イエスの言葉を聞き、人格に触れ、真理であると信じることによって、生きることができるというのです。
ヨハネ福音書は、マリアがナルドの香油をイエスの足に塗り、髪の毛で拭ったことを記しています。マリアの振る舞いを見ていた弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダは、5節に「『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』と言った。」とあります。イスカリオテのユダはマリアの振る舞いは愛に欠けていると批判しました。また、女の人が髪の毛をほどくことは、恥ずかしい、ふしだらなことであると憤慨し、腹を立てたといいます。しかし、マリアはユダの批判や嫌悪を恐れることなく、髪の毛で拭いました。マルコ福音書14章9節には、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」とあります。マリアの信仰、確信、一途さ、誠実さと髪の毛でイエスの足を拭うことを讃えています。
ヨハネ福音書9章1-節以下に、生まれつき目の見えない人がイエスによって、目が開けられる物語があります。彼は目が開けられた後、ユダヤ人の議会に引き出され、証言を求められました。もし、イエスにいやされたと証言すれば、厳しく罰せられ、社会から追放されます。だれも追放を恐れて、イエスにいやされたと証言する者はいません。しかし、彼は「イエスはわたしをいやされました」と証言しています。9節の「わたしがそれだ」は、「わたしは癒された。わたしがそれだ」と訳されます。誰が中傷し、非難し、攻撃しても、「わたしはいやされた」と証言するというのです。11節に「彼は答えた。『イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」とあります。どのような妨害、迫害、中傷があっても、事実は変わりません。わたしは事実を証言しますというのです。
ヨハネ福音書12章7節には、「イエスは言われた。『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。』」とあります。「するままにしておく」は、ギリシャ語で「アピエミー」と言い、「許す、肯定する、是認する」という意味です。イエスは、人々を激怒させたマリアの振舞いを肯定します。ファリサイ派の人々は、マリアに対して、貧しい人を愛していない。愛すると言いながら、なんの行動も取らない、抽象的な愛しかもっていないと批判し、攻撃しました。マリアは窮地に立たされました。しかし、イエスはマリアを「善し」と肯定しているのです。人が「香油が無駄になる」と言おうと、わたしはあなたを「善し」と肯定するというのです。その後を見ると、マリアは自由に毅然として生きています。イエスの肯定が、マリアをマリアらしく生かしたのです。イエスの十字架の死の贖いよって、マリアは生まれ変えられました。
ラザロもイエスの食事に招かれています。しかし、ラザロは、マルタやマリアのように、何の働きもしません。一言も語りません。沈黙しています。イエスによって墓から蘇らされたのですから、その喜びを証しすべきだと言われます。しかし、ラザロは黙して語りません。イエスと共にいるだけで証しているのです。フロムは「to doとto be」ということを言います。人が存在し、意味があるのは、to do、何事かをして役立つからではない、to be、存在することにあると言います。
浅野順一先生は、或る方が「年とともに身体も弱わり、奉仕が出来なくなってきた。申し訳がない。さびしい孤独だ」と訴えたそうです。先生は、「教会の礼拝に共に連なること、礼拝に出席し、御言葉の恵みに与る。これ以上の奉仕はない。わたしはあなたがそこに座っておられることで、語る勇気が与えられている」と答えています。
ホイベルス神父に、「最上のわざ」という詩があります。「この世の最上のわざは何か。楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架を担う。若者が元気いっぱい神の道を歩むのを見ても、ねたまず。人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことの故郷に行くために。おのれをこの世につなぐ鎖をすこしずつはずしていくのはまことに偉い仕事。こうしてなにもできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手はなにもできない。けれども最後まで合掌できる。主と共にある喜びを喜びとする、それだけで十分だと言う」と記されています。イエスの十字架の苦難と復活を思い、手を合わせ合掌する、それで十分だというイエスの言葉を謙虚に受け入れたいと思います。