2024年3月10日 受難節第4主日 「十字架を前にして」マタイ福音書16:21―17:8 

 与えられたテキストはマタイ福音書16:21-17章8節で、イエスの姿が弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山に登られました。そして、彼らが見ている前で、イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように真っ白くなり、変貌しました。そこにモーセとエリヤが現れ、イエスと話し合ったというのです。重要なことは、「イエスが高い山に登られた」ことと「イエスの変貌」です。創世記13章の「ソドムとゴモラ物語」では、神がロトの住むソドムとゴモラの町の堕落と腐敗を見て裁きます。しかし、義なるロトを救うために、「低地に留まるな、山に登れ」と、神がロトに命じ、ロトは山に登り、救われたといいます。

「エリヤ物語」では、列王記上19章6節に「彼は四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。」とあります。エリヤはアハブ王の悪政と腐敗を追求したために、厳しい迫害を受けました。神はエリヤを救うために「ホレブの山に登れ」と命じました。山に登ったエリヤはアハブ王の迫害から逃れることができました。

出エジプト記のモーセでは、19章2,3節に「シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。」とあります。モーセは、エジプトの奴隷として苦しんでいたイスラエルの人々を脱出させる使命を与えられました。脱出の道は水と食料を得ることができない荒れ野を取らなければなりませんでした。イスラエルの人々を飢えと渇きで苦しみました。苦しみに耐えかねて、エジプト人の奴隷の苦役から自由を求めて脱出したはずなのに、われわれを滅ぼそうとしている、エジプトには墓にする土地がないので、荒れ野に導いたのだと、モーセを恨み、憎み、モーセを石で殺そうとしました。19章20節には「主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。」とあります。「山に登った」モーセには、イスラエルの信仰の本質である十戒が与えられました。20章2節に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。」とあります。ヤッハウエの神以外の何者も究極的な拠りどころにしてはならない。時代や状況が変わっても、神の恵みは変わらない。ヤッハウエの神のみを信頼し生きる道があると信じる、と命じられました。神の信仰があったからこそ40年もの苦しい旅を続けることができました。

時代は異なりますが、ルーサー・キング牧師は、暗殺される前夜の説教の中で、「神は、わたしに山に登ることをお許しになり、山頂から四方を見渡すことを許し、神の約束を確信させてくださいました。」と述べています。神はキング牧師に、神の約束を確信させるために、「山に登る」ことを命じました。イスラエルの人々は高い山に上り、神に出会い、信仰を与えられたので、苦しい旅を続けることができました。「山に登る」ことには、神の言葉に聞き従うという深い信仰的な意味があります。

申命記34章1節に「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。」とあります。東を見渡せば、労苦してイスラエルの人々を導き、旅してきた荒れ野が見渡せます。西を見渡せと命じます。西には、ヨルダン川の向こう側に神が約束した地が見渡せます。モーセが苦しみに耐えることができたのは、神の約束の地カナンを信じたからです。しかし、そこで聞いた神の言葉は驚くべき言葉です。34章4、5節に、「主はモーセに言われた。『これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。』」とあります。モーセは約束の成就を目前にして、死ななければなりませんでした。それがモーセの人生だというのです。申命記3章28節に、「ヨシュアを任務に就かせ、彼を力づけ、励ましなさい。彼はイスラエルの先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼に受け継がせるであろう」とあります。神は、モーセはここで死ななければならない。代わりにヨシュアに受け継がせる。あなたは彼を励ましなさいというのです。モーセにとっては青天の霹靂、不条理な神の言葉です。今までの苦難に何の意味があったのか、これまでの労苦は報われないように見えます。しかし、モーセをして、不条理を乗り越えさせる神の信仰がありました。不条理と矛盾に打ち克たせたのが神の信仰であったというのです。モーセは希望を見出したのです。自分の願望が叶えられるよりも、神の御旨が実現することを願うことができたのです。

マタイ福音書16章21節に「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しめを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」とあります。イエスは高い山に登られ、変貌の出来事直後、弟子たちに十字架に付けられ、苦しめられ殺されると打ち明けられました。22節に、「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』」とあります。十字架の死を告白すれば、皆があなたから離れていきます。皆十字架につけられるメシアを期待していません。皆が待望しているのは、絶対的な権力を有する王的メシアです。皆の期待を裏切ってはいけませんと言います。23節に、「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。お前はわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』」とあります。神のことを思わず、人間のことを思っていと叱責しています。この言葉を語って、「六日の後」にイエスの変貌は起こりました。多くの者が、イエスの十字架につまずき、離れて行いきました。弟子たちも離れて行き、イエスの群れの崩壊の危機に直面しました。17章5節に「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、わたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』」という声が雲の中から聞えました。弟子たちはひれ伏し、非常に恐れた。」とあります。「わたしの心に適う者」とは、十字架の道に従い、十字架を負う者のことです。自分を犠牲にする道を神の与えた道と信じる者のことです。神学者バルトは「信仰は損をすることを受け入れることである」と言います。信仰はこの世的には損をする道です。しかし、霊なる心は神の恵みを豊かに受けます。「顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなった」とは、イエスの十字架の栄光を現します。神の肯定です。苦難と不条理が豊かに報われる。16章24節に「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」とあります。十字架の道を生きることに命がある。十字架の道を生きる人に希望と勇気が与えられるといいます。ルーサー・キングは、「神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。わたしは約束の地を見た。わたしは、皆さんと一緒に、その地に達することができないかも知れない。しかし、これだけは知っていただきたい。すなわち、わたしたちはひとつの民として、その約束の地に至ることができるということです」と言っています。神は、私たちを高い山に登らせ、やがて到達するであろう約束の地、神の国を垣間見せてくれます。この世の者に失望させられても、終末的な神の希望があります。信仰を通して見せられた者として、神の約束を知らせ、進むべき方向を指し示していきたいと思います。