与えられたテキストはマタイ福音書20章17- 28節です。28節に「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たと同じように。」とあります。この「来た」は「遣わされた」とも解釈されます。ヨハネ福音書17章21節には「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、彼らもわたしの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」とあります。23節には「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられることを、世が知るようになります。」と。25節には「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。」とあります。イエスは度々「神から遣わされた」と言っています。神に遣わされたのですから、目的と意味があるはずす。言い換えれば、イエスのメシア意識です。イエスは何時メシアであるという意識をもたれたかという問題はあります。
マタイ福音書3章16節に「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である』という声が、天から聞こえた。」とあります。その時から、イエスは世と人の救いのために神から遣されたという意識を与えられたのではないかと思います。その後、メシア意識は、イエスの内面で深められたのではないでしょうか。何回か、神から遣わされてきたことを打ち明けられています。マタイ福音書20章25節には「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるため、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。』」とあります。この「身代金」は「贖い、賠償」を意味するように、この「人の子」は「罪の贖い主・メシア・救い主」を意味します。因みに、詩編8編5節の「人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」の「人の子」は、人間一般を意味します。
マタイ福音書20章17節に「イエスはエルサレムに上って行く途中、十二人の弟子たちだけを呼び寄せて言われました。『今、わたしたちはエルサレムに上っていく。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。』」とあります。また、マルコ福音書10章32節に「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」とあります。この「上って行く」は「心を決めて、覚悟して上って行く、十字架の死」を意味します。イエスはメシア、罪の贖い主として、神から世に遣わされて来た使命と目的を明らかにしています。イエスの十字架の死は自明の事ではありません。エルサレムに上るまでには、血のような汗を流して祈られたといいます。イエスの内面には苦悩と葛藤があり、苦悩と葛藤に打ち克つ信仰がありました。イエスは、神から十字架の死を負う道を歩むように遣わされたと信じ、受け入れることができました。
マタイ福音書20章20節に、「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、『何か望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、』この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。』」とあります。ゼベダイの子の母は二人の息子に特権を与えて欲しいと願い出たのです。彼女には十字架の苦難と死を目前にして、苦悩し、葛藤しているイエスを思いやる心はありませんでした。イエスの生きる原点は、スプランクゼニサイ(腸を痛める)、他人の痛みを自分の腸の痛みにすることでした。しかし、彼女には苦しむ者への思いやり、関心はありませんでした。自分の事柄しか考えられませんでした。それが現実の人間と世界です。それを乗り越えさせるのがイエスの福音です。
21節に、「イエスは『何が望みか』」と言われると、彼女は言った」とあります。イエスは十字架の死を前にして、「あなたの望みはなにか」と、尋ねています。イエスの心の広さ、深さ、高さ、柔軟さ、寛容、優しさを現わしています。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は。「王座にお着きになるとき、この二人の息子の一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」と願います。「わが子だけは何とかとして欲しい」という自己中心の罪に捕らえられています。自己中心的なのは彼女だけではありません。24節に「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」とあります。十人の弟子たちも同じで、自分のことしか考えられません。人間はどうしようもないほど自己中心的な存在、欲望の罪を負っています。それが現実の人間の姿、世の姿であるというのです。
現代美術家椿昇さんの作品は人間の欲望を真正面から見据えていると言われます。「人類は長年、欲望をそのままにしてきた。そのために、欲望は地球規模に膨れあがり、制御不能の瀬戸際まできている。わたしたちはその瀬戸際に生きている。残された時間は多くはない。人間の欲望は際限を知らないように拡大している」と述べています。パウロは、人間の欲望をそのままにしていたら、互いにかみ合い、互いに滅んでしまう。問題の本質は際限のない欲望、自己中心の罪から救われることである。人間には自己中心と欲望の拡大の罪が赦され、解放され、主なる神を讃える道の選択が求められていると言います。
イエスは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのとおなじように。」と言います。イエスは徹底的に仕える者として生き、死なれました。フィリピ2章6節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、」とあります。仕える者の勝利、僕になる者の勝利が讃えられています。神の勝利を信じて、イエスを見倣っていきたいと思います。
ゼベダイの子たちの母は、イエスが十字架につけられたときは、十字架のイエスを見守っている人々の中に立っていました。彼女は身に危険が及ぶことも恐れず、十字架のもとに立ち続けていました。自分の息子だけはと自己中心的な願いを持っていた彼女は、今はありません。わが子ヤコブは、ヘロデ王によって処刑され、ヨハネも、また殉教の死を遂げました。イエスに出会い、人生観、価値観が変えられました。仕えられる者になるのではなく、仕える者になる道を生きることが、祝福を受けるという言葉を信じ従いました。
フェリス女学院の創設に関わったペンネームでは「若松賤子」、本名は「松川かい」という文学者がいました。バーネットの「小公子」の翻訳者です。明治女学校の校長岩本善治と結婚し、4人の子どもを与えられました。しかし、肺結核のために、32歳で亡くなりました。その亡くなる前に、「葬儀は公にせず、伝記は書かず、墓には『賤子』とだけ銘し、もし、尋ねたら、一生キリストの恩寵を感謝した婦人とだけ申してくださいと遺言しました。仕えるだけに生きるのは辛いことですが、究極的には、主から「善い忠実な僕よ」と祝福されます。神の終末的な祝福を目指して生きていきたいと思います。