与えられたテキストはマタイ福音書21章12-17節の「神殿から商売人と両替人を追い出す」です。「ナザレのイエス」という非常に人間的なイエスを描いたイタリアの映画があります。その典型的なシーンがこのいわゆる「宮清め」の場面です。イエスが大きな柱のような材木を振り回して、神殿の境内の商売人や両替人の店を倒し、商売人や両替人を境内から追出す、憤るイエスが描かれています。イエスは何故憤ったのか。13節に「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。」とあります。イエスは、エルサレム神殿の本来は祈りを献げ、神の御旨を問う場所です。しかし、神殿本来の信仰と伝統を失っている現実を目にして、激しく憤ったのです。
列王記上6章1節以下によれば、神は神殿建築をソロモン王に命じ、モリヤの山を選びました。創世記22章22節には、「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」とあります。モリヤは、アブラハムが息子イサクを犠牲として神に献げよと命じられ、それに応えて、イサクを献げた山です、モリヤ山に神殿を建築したことは、独り子さえ惜しまず神に献げるアブラハムの信仰と理念を本質にする告白です。また、アブラハムの信仰と理念は何時の時代でも継承され、治世と歴史の本質にしてきました。しかし、イスラエルの現実・治世と歴史はモーセ、アブラハムの信仰の本質と理念を失った歴史であると思います。イエスの時代も例外ではありませんでした。イエスが、祈りの家を強盗の巣にしていると憤っているのは、本来の信仰と理念から遠く離れ、失っていたからだと思います。紀元前19年、ヘロデ・アンティパス大王はユダヤ人の関心を買うために、大規模な神殿の増改築工事を始めました。その改築工事はヘロデ王、イエスの時代も続いていました。ヘロデ王にとって、神殿改装は、神を礼拝し、祈りを献げるためでなく、自分の地位を維持し、人気を高めるためであり、信仰と本来の精神は失っていました。21章12節以下に「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し。両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒された。そして言われた。『こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。』」とあります。「強盗」は「略奪者、圧制者、暴力をもって支配する者」という意味です。「巣」は「洞窟」のことで、略奪者、圧制者が悪政を続けるための秘密の部屋、隠れ家を意味します。つまり、イエスは、神殿を略奪者、侵略者の秘密の部屋、隠れ家にしていると、憤っているのです。
ローマの信徒への手紙12章1節には「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」とあります。パウロも「神殿が、神に献げる場所、祈りの場所ではなく、奪う、略奪する、自己利益の追求の場所になっている」というのです。神殿には両替人や商売人の入場は許されたのに、貧しい者、目の見えない人、歩むことのできない障碍者は入ることは許されませんでした。つまり、神殿が富む者と貧しい者との格差を広げ、人間関係を分断する場所になっているのです。
14節に「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、『ダビデの子にホサナ』と言うのを聞いて腹を立て、」とあります。目の見えない人や足の不自由な人は「イエスよ、今、憐れんでください、救ってください」と叫び、イエスを救い主と讃えています。律法学者は、律法に固執し、貧しい者や障碍者、異邦人が神殿に入ることは、律法を犯すと言って追放しました。本来の神殿信仰に立つイエスは、形骸化した神殿の改革に果敢に臨みました。イザヤ書43章4節に「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、」とあります。来るべきメシア、イエスは貧しい人、障碍を負った人が分断され、孤立しないようにいつも、共におられ、戦われるといいます。
心理カンセラーの内田良子さんは子供たちを苦しめている「場面緘黙症」について記しています。或る生徒は、ある場面になると、緘黙、しゃべれなくなるそうです。或る家庭に中学2年生と小学生3年生の二人の姉妹がおられました。二人は今一番楽しく、元気なときですが、学校が見えると、緘黙になってしまうそうです。いじめに遭い、心を深く傷を負ったからだそうです。キュブラ-・ロスは「ダギーへの手紙」の中で、「学校は、人と出会い、自分を理解し、他人を理解するところ、そして、自分と人に正直でいられるところ、人に愛を与え、人から愛を貰うところです。しかし、現在の学校はイエスに時代の神殿のようです。金属疲労のように、壊れかかり、形骸化しています。生徒は、孤立化し、分裂し、孤独感に悩まされています。イエスのなさった乱暴にも見える不思議な御業は、子どもたちの再結合、再び手を携えることの勧めであると解釈できます。分離し、孤立した二人が、もう一度手を携えて生きる。再びつながる、新しい命を与え合う物語です。」と言っています。心理カウンセラーの内田良子さんは、家庭内暴力に悩んでいる方のことを記しています。御両親は「欲しいものは、なんとかして与えてきた。不満はないはずだ。何が不満で暴れるのか。」と言われるそうです。生徒は「うちには宗教がない」と言うそうです。御両親は「家には仏壇も、神棚もあるのではないか。おじいちゃんのお葬式も、おばあちゃんのお葬式も出したではないか。立派に宗教をしているのではないか」と応えたそうです。生徒は「応えになっていない」と言うそうです。生徒は「宗教は強く結びつくこと、強い絆を生み出すこと、それが宗教ではないか」と言うそうです。確かに宗教は、「レリジョン」と言って、神と人とが太いいのちの絆で結ばれること、人と人とが強い愛の絆で結ばれることを意味します。確かにイエスは、人を神に結びつけ、人と人とを結びつける働きを懸命にしています。フランチェスコには「いさかいのあるところに許しを、分裂のあるところに一致を」という祈りがあります。イエスはいつも新しい絆、結び合わせ、共に生きる道を造り出しています。
17節に「それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊りになった。」とあります。この「出て」は「突破して」です。「ベタニアに行く」の「ベタニア」は、十字架を負う決断をしたところです。つまり、イエスは十字架を負うために、古い神殿を突破したことを意味します。犬養道子さんは「人間の大地」の中で「愛は狭さを破ることである。視界と心の狭さを果敢に破って、『広く出ること』である。出て初めて、異質なる他者との関わりを持つことができる。キリストの福音は、人と神との関係を説くと同時に、人と人との関係・連帯の再構築のプログラムについて述べている。」と言っています。イエスにつながって、人とのつながりを造り出していきたいと思います。ソロモンの神殿は建物の外側は粗末で、小さいですが、内側は非常に大きく美しく大事に造ってあったと言われます。犬養さんは「外側よりも内側です。内側こそ、より本質的、内実を伴わなければならない」と言います。マタイ福音書23章25節に「あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」とあります。パウロは「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされる」と言います。イエスは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれる」と言います。イエスと出会い、内なる人は日々新たにされ、「わたしの家は祈りの家と呼ぶようになる」というイエスの言葉に応えていきたいと思います。