2024年4月14日 復活節第3主日 「新しい命を受けて」 マタイ福音書12:38-42

 与えられたテキストはマタイ福音書12:38-42で、「人々はしるしを欲しがる」です。38、39節に、「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った。イエスはお答えになった。『よこしまで神にそむいた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』」とあります。「しるしを欲しがる」の「欲しがる」の原語は「切に求める、探し求める」という意味で、7章7節の「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」の「求めなさい、探しなさい」に用いられています。「よこしまで神に背いた時代」とは、「徒労、虚無、空虚の時代」という意味です。石川啄木に「働けど、働けどなお、わが暮らし楽にならざり、じっと手を見る」という短歌があります。懸命に働きますが、報われず、虚しい思いをしているという意味です。イエスの時代も、今の時代も、働いても報われない、徒労、虚無の時代であるというのです。また、よこしまで神に背いた時代の者たち、つまり、虚無と徒労の時代に生きる者たちはしるしを欲しがるというのです。つまり、しるしを求め、探しているが、預言者ヨナのしるしのほかには与えられないといいます。

アモス書8章11節に「見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」とあります。預言者アモス時代も(BC7世紀)、生き甲斐や生きる喜びや意味を失った徒労と虚無と絶望の時代でした。人々はしるしを欲しがたが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられなかったと言います。

39節の「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが」の「背く」は、口語訳は「不義」と訳しています。「義に背く、道から外れる」という意味です。イスラエル人々の人々はバアルの神や権力やお金の力を絶対化し、頼りにし、命の真の根源であるヤッハウェの神を捨て、拝金主義、拝物主義、偶像礼拝に陥り、義や愛を失っていました。アモス書8章5節には、「お前たちは言う。『新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか。麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅を重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。』」とあります。くず麦は、汚染米のことです。汚染米を誤魔化して売ろう。早く安息日が終わればよい、麦を売ろう。貧しくて弱い者は、用がなくなれば、物のように売られ、捨てられる。預言者アモスの活動した時代は、南ユダの王ウジヤと北イスラエルのヤラベアム王の時代で、心を病み、空虚と虚無と絶望の時代でした。イエスの言われるしるしを欲しがった時代です。

イエスはイエスと弟子たちの時代も虚無と絶望の時代である。だから、人々はしるしを欲しがるといいます。この「しるし」は、ギリシャ語で「セメイオン」と言い、「証拠、奇跡、大きな出来事、保証」という意味があります。元来は、「確かにする、確かなもの」という意味です。不安で、虚無で、生き甲斐を喪失している時代の中で、自分の存在を確かにするという意味です。つまり、イエスは不安と虚無の時代の中で、自己を確かにする信仰を求めよというのです。それがイエスの「しるしを欲しがる」の真の教えだと思います。イエスは優しい憐れみ深い方ですから、不安と虚無の時代に生きる人々に、「しるし」、自己の存在を確かにすることを与えようとされたのだと思います。

マタイ福音書9章35節に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」とあります。この「深く憐れまれる」の原語は「スプランクナゼニサイ」と言い、「腸、はらわた、お腹を痛めるほどの同情」という意味です。イエスは、生き甲斐を失い、退廃と荒廃した時代を生きる人々に、腸・はらわたを痛め、しるし、自分を確かにする救いの道を与えようとされたのです。

38節に、「律法学者パリサイ派の人々が『先生、しるしを見せて下さい』と言った。」とあります。この「しるし」は複数形で、イエスの「しるし」は単数形で、他にはない、唯一の「しるし」で、ヨナのしるしです。ヨナは信仰的に退廃したニネベに、神の裁きと悔い改めを伝えるために召されました。しかし、ニネベを恐れ、神の召しに応えられず、逃げ出し、命じられたニネベの反対の方向のタルシシュ行きの船に乗り込みました。しかし、ヨナの乗船した船は途中で嵐に遭い、ヨナは海に投げ込まれ、大魚に飲み込まれ、ニネベに行くことはできませんでした。ヨナは神の召しから逃げ出したのです。ヨナの神の召し、ニネベ行きの拒否は、ヨナの存在を崩壊させ、生きる意味と目的も失わせました。ヨナは窮地に立たされ、大魚の腹の中で、必死に神に祈りました。ヨナ書2章3節に「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」とあります。不思議なことですが、突然ヨナは、大魚の腹から吐き出され、ヨナが一番恐れたニネベの海岸に打ち上げられました。恐れていた神の言葉を伝えることになりました。神の召しに応えて生きる者に導かれ変えられたのです。イエスは「ヨナのしるしの他にしるしはない」と言います。神から逃れようとした者が、神に捕らえられ、神の器として生かされる。神は、神の前から逃亡するような弱さを持った者を捨てないで、救われる。その事実がイエスの言われるしるしです。

イエスは三回も裏切ったペトロに、「あなたが立ち直ったとき、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言っています。そのイエスの言葉によって、ペトロは立ち直りました。ヨナが三日三晩、大魚の中で過ごして、吐き出され、生還したことは、イエスが十字架の死後、墓から復活したことを象徴します。ヨナの大魚の腹からの生還は、イエスの死から復活を指し示しています。死と墓から蘇らせたのです。

ヨナの「しるし」は神の勝利、不可能を可能される神の力です。生きる目的や意味を失っている人を救い、勝利ある人生に導きかれる。それがヨナのしるしです。ヨナのしるしは苦難と死に対する勝利です。イエスの福音を聴くと、人生を究極的に支えるのは、キリストの死と復活に与る信仰だということを確認させられます。イエスはラザロを納められた墓から蘇らされたように、死と絶望と虚無に苦しむ人を勝利に導かれます。コリントⅡ1章8.9,10節に、「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また、救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」とあります。主イエスのしるしは人を確かにするしるしです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そすれば、見つかる。」と言います。イエスの言われるヨナのしるしを受け入れ、信じていきたいと思います。