イエスは復活された後、ティベリアス(ガリラヤ湖の別名)湖畔で、弟子たちに御自身を現わされました。弟子たちの気持ちは複雑でした。弟子たちは、イエスが捕らえられ、十字架につけられるとき、イエスを見捨て、逃げてしまいました。弟子たちは取り返しのつかないことをしたと後悔と自責の念に捕らわれていました。ペトロは、三度もイエスを知らないと否定し、二度とお会いすることはできないと思い詰めていました。その気持ちを紛らわすために、「わたしは漁に行く」と自分に言い聞かせるように、叫びました。すると、他の弟子たちも「わたしも行く」と言い、舟を湖に出し、網をうち、漁を始めました。ところが、その日は、一晩中、網を打ちましたが、雑魚1匹もとれませんでした。夜が明け、彼らは徒労に打ちひしがれ、舟置き場に帰って来ました。ペトロは、このまま岸辺に着いたら、七人が折角一つになったのに、バラバラになってしまうと絶望しました。そのとき、岸辺に立っている人が見えました。イエスでしたが、弟子たちは、イエスが生きていることを信じることができませんので、イエスであることは思ってもみませんでした。
5節に、「イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』」とあります。彼らは、元はティべリアス湖(ガリラヤ湖の別名)の漁師で、ティベリアス湖を自分の庭のように知り尽くしていました。その人は、ペトロらに「もう一度網を打て」と言われましたが、彼らは納得できませんでした。それでも、ペトロは、どうせ駄目だと、諦めつつ、網を打ち、網をたぐり寄せました。すると、不思議なことですが、網を引きあげることができないほどおびただしい魚がとれたというのです。6節に、「そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」とあります。手応えがあったのです。その手応えは、腕や足に、腰や、全身に伝わってきました。徹夜の労苦のあと味わう手応え、労苦の報われを体験をするのでした。ペトロの手紙Ⅰ1章6節に「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と栄光と誉れとをもたらすのです。」とあります。弟子たちは神の賞賛と栄光と誉れ、終末的な復活信仰の勝利の先取りの体験をするのでした。
7節に、「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。」とあります。ペトロは上着を着たまま、海に飛び込み、岸辺に向かって必死に泳ぎました。泳ぎながら、イエスに出会い、弟子に召されたときの経験を思い起こしました。ルカ福音書5章4節に「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出し網を降ろし,漁をしなさい』と言われた。シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った」。イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる』と言われました。そこで、彼らは、舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」とあります。ペトロが初めてイエスに出会い、弟子に招かれたときの召命物語です。今、その召命物語を泳ぎながら思い起こしました。
復活の主イエスとペトロの出会いには、主イエスに深い御旨がありました。ペトロの存在の原点である「今から人間をとる漁師にしよう」という言葉をよみがえらせることです。イエスを裏切るという罪を犯したペトロが、もう弟子としては立つことはできないと思い詰めていました。しかし、復活のイエスは、失望落胆、絶望しているトロに最初のガリラヤ湖の召命の出会いを思い起こさせたのです。「人間を採る漁師になる」と言われたのに、一人も招くことができず、役に立たないと思い込んでいたペトロに、「あなたが必要である、主がお入り用です。わたしの器として用いる。」と言われるのです。復活のイエスの言葉を聴いたペトロは生まれ変えられました。何も出来ないと思い込んでいるペトロを、できると信じる者に変えられたのです。
ヨハネ福音書15章5節に「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とあります。キリストから離れたら、何もできない事実を悟らせたのです。キリストにつながって、イエスの言葉に従うとき、人の思いを遙かに越えて、豊かな実を結ぶ。できない者ができる者になるという約束を悟らせたのです。
マタイ福音書14章22節以下に「イエスが湖の上を歩く」物語があります。弟子たちがガリラヤ湖を舟で渡ろうとしたとき、逆風が吹き、漕ぎ悩み。転覆しそうになりました。それを見たイエスは、湖の上を歩いて近づきました。弟子たちは湖上を歩いているイエスを見て、「幽霊だ」と言って怯え、恐怖の叫び声を上げました。そのとき、イエスは、「わたしだ。恐れることはない」と叫びました。すると、ペトロは「主よ、あなたでしたか。わたしに命じて、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願います。イエスは「来なさい」と命じます。すると、不思議なことですが、ペトロは舟から降り、水の上を歩き、イエスのところに行くことができたというのです。ところが、ペトロが荒れ狂う逆風に気づいて、イエスから目を離すと、ペトロは沈みかけ、溺れそうになり、思わず「主よ、助けてください」と叫び声を上げたといいます。イエスは直ぐに手を伸ばしてペトロを捕まえ、「信仰の薄い者よ、何故疑ったのか」と言われたといいます。この「疑う」とは「二つのものを同時に見る」という意味です。荒れ狂う海に気をとられて、イエスから目を離し、荒れ狂う海をみると、溺れたというのです。ペトロが主イエスだけを見上げ、イエスだけにつながるとき、水の上を歩くことができたというのです。イエスだけに目を注いでいると、無力な者ができる者へと変えられるというのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節に、「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」とあります。パウロは、イエスの復活信仰の総括としてイエスに結びついているならば、あなたがたの労苦は一切無駄になることはない。その事実を明らかにしています。主イエスは復活され、ガリラヤ湖で弟子たちに現れ出会い、大漁の出来事を与えてくださったのです。復活のイエスを信じ愛し、受け容れて行きましょう。