2024年5月12日 復活節第7主日「永遠に共におられる主」マタイ福音書28:16-20

 使徒言行録1章8-9節に、「イエスは言われた。『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」とあります。「見えなくなった」は現在完了形で、見えない状態は現在も続いていることを強調しています。イエスは復活された後、顕現し、使徒たちを福音宣教に派遣されましたが、使徒たちが見ている中を天に上げられ、イエスは見えなくなりました。しかし、見えなくなったくから、おられなくなったのではなく、聖霊として存在し生きているという信仰に生きるというのです。

マルコ福音書15章34節に、「3時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」と、39節に「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子であった』と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。」とあります。41節には「なおその他にも。イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。」とあります。百人隊長をはじめ、大勢の婦人たちが、大声で叫びながら、息を引き取っていくイエスを見て、信じたというのです。「見て」は「目撃する」という意味です。ヨハネ福音書6章9節以下には、五つのパンと二匹の魚で五千人を給食するイエスを見て、6章16節以下には、荒れ狂うガリラヤ湖を静め、湖上を歩くイエスを見て、ルカ福音書5章12節以下では、ライ病人を癒したイエスを見て、17節以下には、中風の人をいやすイエスを見て、ヨハネ福音書9章1節以下には、生まれつきの目の見えない人の目を開き、見えるようにされたイエスを見て、信じるようになったことが記されています。初めの教会はイエスに出会い、イエスを見て、直接言葉を聞いた愛弟子の時代です。言い換えれば、イエスを見て信じるようになった人々の集まりです。しかし、やがて、イエスを見て、言葉を聞き、信じた人々はいなくなりました。代わりに、イエスを見ないで信じた人たちが教会の中核になりました、その意味では、見なくて信じる信仰が確立され、育てられていきました。

ヨハネ福音20章27節に、「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』 トマスに答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」とあります。トマスはイエスを見なくては、信じられませんでした。しかし、復活のイエスに出会い、信じる者になりました。イエスの見なくて信じる人は幸いであるという言葉がトマスの信仰を育てました。初代教会も、見なければ、信じられないという信仰を克服し、見ないで信じる信仰が育たなければなりませんでした。

ペトロの手紙Ⅰ1章8節に、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちて溢れています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いをうけているからです。」とあります。ペトロは見ないで信じる信仰を確立し、讃えています。ローマの信徒への手紙10章17節には「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とあります。パウロも信仰は見ることではなく、神の言葉を聞くことが信仰の本質であると言っています。

使徒言行録1章9節に「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」とありました。イエスは昇天され見える姿では存在しません。神は、イエスは目に見えない聖霊において存在するという信仰を与え、確立し、継承させました。マタイ福音書28章18節に「イエスは、近寄ってきて言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』」とあります。マタイ福音書は「主イエスの誕生・インマヌエル、神は我々と共におられる」で始まり、世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」で終わります。教会は、使徒時代から、信仰の中核は「神はあなたがたと共にいる」という信仰です。イエスは見えませんが、聖霊においてわたしたちと共にいる事実を信じる信仰です。

出エジプト記に、モーセが初めて主なる神と出会う物語が記されています。モーセはエジプトから逃れてミデアンの地で羊飼いをしていました。そのとき、神はモーセに現れ、「靴を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」と命じました。出エジプト記3章6節以下に、「『わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である、』」と、7節には「『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す。』」と。9節には「『見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしの元に届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。』」とあります。モーセはエジプトの奴隷で苦しんでいるイスラエルの人々の救いのために立ち上がり、救い出すという神の召命を受けました。モーセは不安に襲われ、恐れました。神は、恐れ戸惑うモーセに「わたしはヤーウェの神である。わたしは必ずあなたと共にいる」と告げました。「ヤーウェの神」とは、「わたしは全て者の創造主、永遠に存在する者」という意味です。詩編90編9節に、「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」とあります。わたしたちの存在と人生は有限で、束の間です。しかし、主なる神は永遠の存在です。その永遠の神がわたしたちと共にいるというのです。ヨシュア記1章5節に、「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はいないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」とあります。神が、モーセの死後、ヨシュアに約束した言葉です。「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」と神は言います。神が主イエスを通して約束している言葉です。見えなくて、あなたがどこに行っても共にいると約束します。その約束の言葉を信じるのが信仰です。マタイ福音書28章20節に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とあります。「終わり」は「スン・完全、完成」という意味です。モーセは死にますが、神はヨシュアを継承者に選び、イスラエルの民を神の約束の地カナンに導き、到着しました。申命記1章31節に「主なる神は、父が子を背負うようにあなたを背負ってくださった」とあります。何時いかなる時も、どこにいようとも、共にいる神です。「主なる神が共にいてくださる」という信仰は、わたしたちの存在の原点です。神は全てを創造し「はなはだ良かった」と肯定したように、わたしたちのそのままを「良し」と肯定します。エレミヤは預言者に召された時、自分は相応しくない、足らない者と拒みました。すると、神は「恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と言って、エレミヤを慰め、励ます。「あなたがたの髪の毛までも、一本残らず数えられている」と。髪の毛の数まで知っていてくださる神です。その愛の神が共にいて、守り導き愛してくださるのです。どのような状況におかれても、主イエスは共におられるという事実は変わりません。目には見えなくても、主イエスは共にいて下さるのです。その真実を信じて行きましょう。