2024年5月5日復活節第6主日「イエスの祈りー天の神を求めて」マタイ福音書6:1-15

 与えられたテキストはマタイ福音書6章1-15節です。1節に「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」と、2節に、「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」と、5節には「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」とあります。これら「偽善者たちは、、」のイエスの言葉は、5章1節の「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た、そこで、イエスは口を開き、教えられた。」とあるように、文脈から解釈すると、弟子たちに向けた言葉と理解できます。しかし、実際は、イエスに敵対する多くのファリサイ派や律法主義者の人々も聞いていたのではないかと思います。ファリサイ派や律法主義者の人々は、施しや善行によって救われるという教えであり、信じていました。しかし、イエスは施しや善行によって救われない、救われるのは神を信じる信仰によると教えました。善行や施しではなく、神を信じる福音信仰が真理であり、神が報いることを信じるとから、生きる希望が与えられるというのです。たとえ労苦や苦悩がだれにも評価されなくても、報われなくても、神は報いてくださる、神は隠れたことを見ていてくださるという事実を信じることができれば、虚無と絶望に打ち勝つことができるというのです。  

コリントの信徒への手紙Ⅰ15章13節に「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」とあります。キリストの復活は罪に対する神の勝利であるとパウロは言います。イエスは十字架の死によって、罪に敗北し、苦難と労苦は無駄であったように見えました。ところが、神はイエスを死から復活させ、勝利を与えました。言い換えれば、イエスの十字架の苦難と死が無駄でなかったし、報われ、神の御名を讃えたというのです。パウロはイエスの復活の証しの結びとして、コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節で、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」と述べています。「結ばれる」は「信じる」という意味です。イエスの復活信仰は、福音宣教の労苦は必ず報われるという信仰と宣教の勝利の原点であるというのです。日本バプテスト病院ホスピスの医師であった大津秀一さんは、「余命半年―満ち足りた人生の終わり方」という著書の中で、「世界中を探しても『死んだら何もない』と思っている民族や文化は滅多にない。ところが、例外と言いましょうか。日本人の多くの人々は死んだら何もないと思っている。しかし、死んだら何もないと信じているならば、全ては虚しく虚無に終わり、絶望であると思う。それでは、カミュが言いますように、不条理と虚無の人生に耐えうる人はないと思う。生まれること事態が不条理ですし、更に、生きても、苦難の連続です。その上に、死んだら無になってしまう。それならば、救いも何もない、ただ虚無と絶望しかない。それは、神に背いたアダム以来の人間の苦悩であると思う。主イエスは、その罪・虚無に打ち勝つための道を切り開いてくださった。復活のイエスは、神は不条理と思える労苦に必ず報いてくださるという福音を伝えた。」と述べています。

5節に、「あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたことを見ておられるあなたの父に祈りなさい。隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」とあります。「自分の部屋に入いり、戸を閉じて」は、他人に見せ、見られている自分ではなく、見られている自分から解放された自分になるという意味です。何時も見られていることを気にし、他人の評価を気にしていると、本来の自分を見失う。主イエスは本来の自分を見失わないで、本来の自分でいられることが救いの本質に関わることであるから、大切にしなければならないというのです。

6節に「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」とあります。言い換えれば、本来の自分を発見し、本来の自分になるということです。モーセが神に出会うと、神は「わたしは、あなたに本来のあなたを発見させ、本来のあなたにする者である」と言っています。「モーセ」とは「引き出す者」という意味です。モーセは名前のどおりイエスラエルの人々をエジプト人の奴隷から引き出し、救い出しました。モーセの祈りはイスラエルの人々を引き出す者になることでした。預言者エレミヤも神に出会い、召されるとき、「わたしは若者にすぎません。わたしは語る言葉を知りません」と、神の召しを拒んでいます。しかし、祈りを重ねると、神の言葉を語る者に変えられました。つまり、祈りは、見えているモーセやエレミヤやパウロではなく、見えていない本来のモーセやエレミヤやパウロを発見させ、本来の自分に成らせます。

9節に、「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められるように。御国が来ますように。御心が行われますように。天におこなわれますように地の上にも。』」とあります。イエスの祈りは誰にとっても、教えられなかったら、祈らない祈りです。どの宗教にも祈りがあり、祈りの内容も様々です。家内安全、立身出世、商売繁盛、病気治癒などが祈られます。それはそれで大事なことと思いますが、イエスの祈りは異なります。「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」と祈ります。この「崇める」は、ギリシャ語で「ドクサゾー」と言い、「分ける、聖別する、栄光を与える」という意味があります。つまり、イエスの祈りは、自分自身ではなく、他の人でもなく、神が名誉を、栄光を受けるようにという祈りです。10節「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」とあります。この「御心」は、イエスの十字架と復活において明らかにされた神の御旨です。言い換えれば、罪の束縛から自由にされ、あらゆる苦難、死に勝利することです。「行われますように」は「必ずいつかは行われる」で、終末的な希望を表します。この地上では、主の御心が行われていない。むしろ、御心に反することが行われている。それにも拘わらず、神の御心は必ず行われると信じることです。それがイエスの祈りです。言い換えれば、イエスの祈りは神の言葉を信じる信仰です。ナウエンは母親の最晩年の無残な姿に苦しみます。母親は信仰と愛に満ちた人でした。なぜ信仰と愛に富んだ母親が、こんなに苦しまなければならないのか。なぜ、愛と信仰に満ちた母親が苦しみに遭うのか、と苦しみました。しかし、ある日、母親が「ああ神よ、わたしの神よ、わたしの父よ、わたしの神よ」と祈っているのに気付きました。「わたしの神よ、わたしの父よ、わたしは信じます。わたしは望みます。わたしは愛します」と、祈りというより心の底から叫んでいました。祈りが永遠の命に導き、究極的な勝利を得たというのです。ナウエンは信じるのです。イエスの祈りは叫びであり、死に打ち勝たせ、永遠の命に導く導き手である、と。わたしたちは水平なものを見るだけの生活をし、垂直なものを忘れています。エフェソ4章9節に「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのもの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」とあります。垂直なものを求めて祈り、天の神に心の目を向け、祈りを続けていきましょう。