2024年6月16日 「荒地を耕せ」エレミヤ4章1-4節 エゼキエル11章19-20節

 与えられたテキストはエレミヤ書4章1-4節とエゼキエル書11章19-20節です。エレミヤが預言者に召されたのは、南ユダ王国のヨシヤ王がエルサレム神殿の改修工事を行った際、申命記律法の一部を発見しました。その律法を原理、理念に宗教改革を行いました、エレミヤがその改革に加わったことが預言者に召される契機になったと思います。

ところが、その改革の途上、ヨシヤ王がエジプトのファラオ・ネコにメギドの戦いで戦死するという不運な出来事が起こり、ヨシヤ王の宗教改革は挫折します。南ユダ国の王位はヨヤキンに継承されました。しかし、ヨヤキンに王位継承を契機に、バビロンがエルサレムに侵略を始め、エルサレムを包囲し占領し、エルサレムは陥落しました。ヨヤキン王や祭司、国の指導者たちはバビロンに連行されます。第1回目のバビロン捕囚です(BC598)。その後、即位したゼデキヤ王はバビロンに反旗を翻したため、倒されます。ゼデキヤ王は両眼をつぶされ、足かせをはめられ、バビロンに連行されます。第二回目のバビロン捕囚です(BC587)。ダビデ王朝とイスラエルは倒壊します。エレミヤ、エゼキエルが預言者として活躍した時代は、捕囚前、捕囚、その後の復興というイスラエル激動の時代です。

エレミヤ書1章13節に、「主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。『何が見えるか。』わたしは答えた。『煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。』」とあります。「煮えたぎった鍋」とは、アッシリアか、バビロンか、定かではありませんが、北の大国が侵略してくる危機を預言した言葉です。現実に、エレミヤの預言から10数年後、バビロンの侵略と捕囚が起こりました。

4章1節には、「「『立ち帰れ、イスラエルよ』と、主は言われる。『わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。』」とあります。この「立ち帰れ」はヘブル語で「シューブ」と言い、「方向転換、改心、悔い改め」という意味です。つまり、ヨヤキン王やゼデキヤ王に方向転換し、ヤッハウェの神に向き合うことを求めているのです。しかし、エレミヤの言葉は理解されませんでした。信仰がなく常識的に考えれば、戦争が始まるのですから、ゼデキヤ王のように、「武器を備えよ、兵士を集めよ、大国と同盟を結べ」と命じると思います。ところが、エレミヤは、ヤッハウェの神は「方向転換せよ、悔い改めよ、心を神に向けよ」と命じる、というのです。エレミヤは、ゼデキヤ王や祭司や国の主だった人々から、「国を売る者、弱々しい」と非難と批判を浴びました。しかし、エレミヤは挫けず、一貫して方向転換し、悔い改め、ヤッハウェの神に向かって生きよ、と語りました。3節に「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな」とあります。「耕作地」は「荒地、雑草が生えた、茨の覆う荒地」を意味します。「開拓する」は「深く耕す」という意味です。

エレミヤはベニヤミンのアナトトの出身です。アナトトはエルサレムから5、6キロ離れている「寒村」です。幼い時から、農夫が茨や雑草の覆う荒地を鍬で深く掘り耕すのを見ていたのではないでしょうか。鍬で荒地を開拓し、耕すことが如何に困難であるか。辛抱強さと忍耐が必要であるかを知っていたと思います。それだけに、今、窮地に立つ南ユダ国にとって、必要であるのは「忍耐強さ、辛抱強さ」であるかを訴えていると思います。その思いが「悔い改め」という言葉になっていると思います。国家の存亡の危機に直面しているとき、国家的にも、個人的にも、悔い改め、忍耐強さ、辛抱、我慢が必要であるというのです。

3節に「茨の中に種を蒔くな」とあります。言い換えれば、「面倒なことを厭うな、手軽な手立て、簡単な手段を選ぶな、単純な答えを求めるな。」となります。もう一つ言い換えると、「バアルの神を礼拝するな、拝物、拝金に陥るな、大国の力を頼るな、大国エジプトに援助を求めるな」となります。エレミヤは大国の援助は、イスラエルを滅びに導く、無くてならぬことは、心を深く掘り起こすことである。心を深く掘り起こせば、目に見えない神の支えと神の支配、神の救いに出会うというのです。

エレミヤと同じような預言活動したのはエゼキエルです。エゼキエル11章19、20節に、「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」とあります。「石の心」とは「頑なな心、神を拒む心」という意味です。「肉の心」は「柔軟な心、新しい心、神を受け入れる心」という意味です。「除く」は「切り取る、改心する」という意味です。つまり、神は頑なな心を除き、肉の心、柔軟な心、新しい心、新しい霊を与えるというのです。

19節の「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」を、意訳すると、「わたしは彼らの一人一人に一つ心を与え、彼らの一人一人の中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの一人一人の肉から石の心を除き、一人一人に肉の心を与える。」となります。この「一人一人」は、エゼキエルやエレミヤの独自の概念です。それまでは、国の罪、民族の罪、国の悔い改め、民族の悔い改めが問題であって、一人の罪、一人の悔い改めは重要な問題ではありませんでした。しかし、国家の滅亡と捕囚を経験したエレミヤやエゼキエルとって、「一人の罪、一人の悔い改め、一人の赦し」という主体性が重要な問題になっていると思います。つまり、制度や機構の改革では不十分というのです。本質的なことは、一人一人の心、一人一人の心の悔い改め、主体性の改革がなければ、救われないというのです。その意味で、一人一人が心の包皮を除く、石の心を悔い改め、古い自分は死んで、新しい霊を注がれ、新しい人に変えられることがなけなければならないというのです。

エフェソ4章21-24節に「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいて正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」とあります。パウロは、滅びの危機を免れるには、一度死んで、全く新しい人に生まれ変わらなければならないと言います。エレミヤもエゼキエルも、エルサレムの崩壊やバビロン捕囚という危機的状況の中で、荒地を耕せ、心の包皮を取り去れ、新しい霊を受けよと語りました。つまり、悔い改めよ、回心せよ、生き方、生きる方向を転換せよといいます。信仰の原点に立ち返る。新しい出発をする。霊が注がれ、そこに救いの道があるというのです。