ヨナ書3章1節に「主の言葉が再びヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。』」とあります。「再び」言いますから、二度目です。一度目は、1章1節の「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。』しかしヨナは主から逃れようとし出発し、タルシシュに向かった。」です。ヨナは大国アッシリアのニネベを恐れ、「ニネベに行きなさい」という主の言葉に従うことができず、主から逃れ、裏切り、タルシシュ行きの船に乗りました。ヨナが臆病で弱虫で、気弱のため、ニネベに行かずタルシシュに逃れたのです。しかし、主の言葉はヨナを逃しません。再び「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」と命じました。主なる神は、弱虫で憶病の[大村1] ために、主を裏切り挫折するヨナを切り捨てず、諦めず、再びヨナを選び、呼び、ニネベに遣わすのです。
ルカ福音書22章31節に「『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』」とあります。「立ち直うたらlは「立ち直り続ける」という意味で、「力づけてやりなさい」は「希望を与えなさい」という意味です。イエスは裏切る弱いペトロに、「あなたは立ち直り続け。兄弟たち強め、兄弟たちに希望を与えなさい。」と言われるのです。イエスを裏切る弱いペトロが「兄弟たちを勇気づけ、希望を与えるとは誰も想像きません。しかし、イエスは、人を裏切る弱さを持ったペトロが、神を信じれば、他人の救いのために生きる者に変えられるとを信じているのです
ヨナ物語では、アッシリアのニネベを恐れ、逃れ、タルシシュに向かったヨナに、主なる神は、「再び、ニネベに行き。わたしがお前に語る言葉を告げよ。」と命じます。臆病で弱虫のヨナを敢えて再び選び、主の言葉を語る者に変えられる。それが主なる神、主イエスの信仰です。士師記のギデオン物語は、ギデオン神から「イスラエルの人々をミディアン人の手から救い出しなさい」と命じられます。ところが、ギデオンは背が高く、強力な体力のミディアン人を恐れ、酒ぶねに隠れていました。士師記6章15節に。「彼は言った。『わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセ族の中でも最も貧弱な者、家族の中でもいちばん年下の者です。」とあります。ギデオンは貧弱な者と自己卑下しているのです。士師記では高慢は大きな罪ですが、同時に、自己卑下も罪です。人は自己卑下の罪から解放されなければならないというがあります。6章12節に、「主の御使いは彼に現れて言った。『勇者よ、主はあなたと共におられます』」とあります。ギデオンは自分をナセ族の中でも最も「貧弱な者」と見ていますが、主なる神はギデオンを「勇者」と見ています。そのギャップが信仰です。「勇者」と見るだけでなく、勇者にしてくれるのが信仰です。「主の御使い」の「主」は、「ヤッハウェ」と言い、「信仰を与える神」です。言い換えれば、新しい自己理解を与える方です。ヤッハウェの神に出会うと、それまでの自己理解とは全く違った自己理解が与えられます。最も貧弱な者、小さい者と自己卑下している者が「神の勇者」と自己理解することができるのです。それが主なる神が与える信仰です。
エジプト記4章10節に、「それでもなお、モーセは主に言った。『ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉かけてくださった今でもやはりそうです。全く,舌の重い者なのです』」とあります。モーセは、ヤッハウェの神に出会うと、これまでとは全く違う自己理解が与えられ、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放する存在であることを示されます。エレミヤも、主なる神に出会い、召命を受けると、「ああ、駄目です。わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから」と反論します。エレミヤ書1章7節に、「しがし、主はわたしに言われた。『若者すぎないと言ってはらない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしの命じることをすべて語れ』」とあります。エレミヤは、わたしは若者に過ぎませんから、わたしは語る言葉を知りません。」と神の言葉を拒絶しても、神に促されて。バビロン捕囚で捕らえられた人々に神の言葉を語りました。ヨナも、ギデオンも、モーセも、ペトロも、皆言葉を語る者ではないと神の召命を拒絶しています。しかし、ヤッハウェの神は、「わたしはあなたと共にいる神である」と言って、彼らを勇気づけ、使命を与えます。ヤッハウェの神の言葉どおり、ヨナはニネベの滅亡から救いのために、モーセはイスラエル人をエジプトの奴隷から解放のために、エレミヤは、エゼキエルはバビロン捕囚民の救いのために遣わされました。ヤッハウェ神は人の本来の姿を明確にし預言者、解放者に導かれます。
3節に「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。』」とあります、ヨナは勇気をもって叫びました。すると、驚いたことに、ニネベの人々が、大きな者から、小さい者まで、神を信じ、神の前に悔い改めたのです。噂を聞いたニネベの王は王座から立ち上がり、王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の中に座し、悔い改めた、というのです。この出来事は、神に遣わされていると信じて生きる者は、空しい思いで終わることはない、労苦は必ず報われる事実を示しています。
復活の朝、主イエスが、その夜雑魚一匹も取れないで、空しい思いで、引き返して来たペトロたちの前に現れ、「子たちよ、何か食べる物あるか」言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスが「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言われた。そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。ヨハネ福音書21章7節に「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った」とあります。主イエスが弟子たちに、生きることの手応えを経験させた出来事です。主イエスに遣わされているとう信仰に生きるとき、徒労で終わらない。必ず報われる事実を伝えています。
パウロはファリサイ派時代に、教会を迫害し、エルサレム教会が最も恐れた人物ですが、使徒に加えられるとき、「何をするか分からない危険人物だ」と加入することを拒否されました。しかし、バルナバだけは、主イエスがパウロに現われたこと、ダマスコでイエスのことを大胆に宣べ伝えていることを証言し、使徒に加えることを説得しました。結局バルナバの説得がパウロの使徒加入の根拠になりました。バルナバは無名で、後の教会の歴史に残っていません。しかし、バルナバがいなければ使徒パウロの存在はなかったのではないでしょうか。バルナバに神に選ばれ、神から遣わされているという信仰があったから、大多数の者が反対する中で、パウロを正しく理解し、擁護できたのではないでしょうか。ヨハネ福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、」とあります。イエスが遺していかれた信仰です。神に選ばれ、遣わされているという事実を信じる信仰です。そこに救いの光を見出すことができると思います。