歴代誌下26章は、南ユダ王国のウジヤ王について記しています。ウジヤは、16歳で王に即位し、52年間南ユダを治めました。有能な王で、通商の発展を図り、兵力を整え、エルサレムの城壁を補強し、港を建設し、畜産農業を奨励し、新技術を取り入れ、製造業にも力を入れ、歴代最高の繁栄をもたらしました。しかし、ウジヤ王も権力と勢力が拡大すると、堕落し、主に背き腐敗しました。晩年は不運に重い皮膚病(ハンセン病)に冒され、部下や家族から隔離され、孤立した生活を送りました。神殿にも近づけず、政治にも携われず、孤独な生活を営み、一人で死に逝きました。良い働きと業績を遺されたのに、王家の墓に納められず、荒れ野に葬られました。世は非情である事実を表しています。歴代誌下26章は、世の権力を得ると傲慢に陥って行くウジヤ、重い皮膚病に冒されるという不条理を受け入れられず、神を恨み人生を呪い、絶望するウジヤを記しています。
歴代誌下27章には、ウジヤ王の後を継いだヨタム王について記しています。1節に「ヨタムは25歳で王となり、16年間エルサレムで王位にあった、彼は、父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。」とあります。ヨタムは、不条理な、矛盾したことに出会っても、主の御前をたゆまずに歩き続けたと記されています。ヨタムは、不条理な出来事に出会っても、絶望し、虚無に陥ることなく、不条理な出来事の中にも神の御心があると信じ、神の御心を見つけていくことに努めたというのです。苦難に出遭っても、絶望し、虚無になることなく、信仰をもって、主の定めた道を歩んだというのです。
ヨタム王の信仰を継承したのが、エレミヤではないかと思います。イスラエルは、紀元前587年バビロニヤのネブカドネツァルに侵略され、エルサレムは陥落し、民は補囚民としてバビロニヤに連行されました。エレミヤは、ネブカドネツァル王の親衛隊長ネブザルアダンによって、エルサレムに留まることが許されました。南ユダ王ゼデキヤはバビロニヤに使者を遣わすために、エレミヤを選びました。エレミヤは手紙を携え、バビロニヤに行き、捕囚の人々に神の言葉を伝えました。捕囚の人々はバビロニヤの流れのほとりに座り、シオン(エルサレム)を思い出し、泣き出したといいます。バビロニヤの人々から「自分を守ることもできない無力な神を信じている」と軽蔑されました。それは捕囚民にとって、辛い、悲しいことでした。エレミヤは軽蔑され、絶望している捕囚民に勇気と希望を与えようとしました。
エレミヤ31章16、17節に「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」とあります。29章11節には「わたしは、あなたがたのために立てた計画をよく心に留めていると主は言われる。それは平安の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」とあります。エレミヤは、神は打ちのめされ、絶望のどん底にある捕囚民を励まし、立ち上がらせようとしました。捕囚民が捕囚という悲劇的な出来事に直面し、その出来事が神の計画、神の導きであると信じ、未来に希望を見出して行くようにというのです。
31章31節に「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」とあります。「新しい契約」とは「新しい約束」です。33節に、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」とあります。「律法」とは「教え、救いに至る道、崩壊したエルサレムの再生の道」のことです。「律法、救いに至る道」を石の板ではなく、胸の中に授け、心に記すというのです。つまり、信仰の内面化、個人化です。これまではユダ国が滅亡したのは、国家、民族の罪のためであると考えていました。罪は、国家、民族の問題であって、一人一人の個人の問題になっていませんでした。神との関係も、国家、民族との関係で、人格的な関係(倫理的な関係)になっていませんでした。それでは真の信仰にはならないとエレミヤは言うのではないでしょうか。一人一人の関係と捉え、深く掘り下げ、主体的に捉えていかなければならない。そこが信仰の根底になければならないというのです。それが捕囚という国家の崩壊の苦難から再生された新しい救いであるというのです。
これまでの律法・教えは、人間を外側から規定するもの、「~をすれば、救われる。~しなければ、罰せられる」と、人間の外側を規正してきました。しかし、外側の規正では、捕囚民の実存を救うことができないというのです。一人一人の内側から湧き出てくる思い、神への愛、それに基づいて生きる人にならなければ、救われないというのです。
マタイ5章41節に「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」と言われました。イエスは、一マイルは強いられて行きますが、もう一マイルは主体的、自発的に行く、その一マイルに救いがあるというのです。「ねばならない」という思いからではなく、「そうせずにはいられない」という思いから行う、自由と主体的な人間になる。新しい生き方が与えられるというのです。エルサレムの滅亡とバビロニヤ捕囚の苦難を契機に、180度転換して、新しい未来と希望、在り方、生き方が与えられるというのです。
韓国のオペラのテノール歌手ベー・チェチョルという方は、ヨーロッパでその実力が認められ、アジアを代表するテノール歌手だそうです。或る日、ベー・チェチョルさんは突然甲状腺の痛みに襲われ、検査の結果、癌が見つかりました。大きな手術をされ、歌手にとって命である声帯のかなりの部分を取り除かれたそうです。思っても見ない試練に直面しました。ベー・チェチョルさんのバビロン捕囚です。癌になる直前は、それまでの歌手生活の中で最高の状態でした。すべての面でとても自信に満ちていた。順風満帆の中での甲状腺の癌を発病、なぜこんな不条理なことに遭わせるのか、神は本当にいるのか、疑いや不満を抱くことが普通です。しかし、べー・チェチョルさんは、そうではありませんでした。「わたしは知らず知らずのうちに神さま以外のものを第一にしていました。神さまはそのことを悟らせるために、わたしのとても大切なものを取り去ったのです。この苦しみが、オペラのことで一杯だったわたしの心を整理し、神さまと一対一の関係で向き合い直すための機会となりました。声が出ないという現実は、自分の努力でどうにかできるものではなく、ただ神に頼るしかありません。その事実を認めて、『わたしの恵みはあなたに十分である、力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』というパウロの言葉をひたすら信じ、祈りました」と述べています。
イスラエルの民がバビロン補囚から帰還し、確かな確信、将来と希望を、苦難の意味を見出していくのでした。誰の人生にも一度はバビロン補囚があります。その補囚は新しい人が生まれるための補囚であると信じていきたいと思います。