与えられたテキストは創世記49:29-33とルカ福音書13:10-17です。ヤコブは波乱に富んだ生涯を歩みました。その生涯の終わりに、自分の子どもたちを集めて、一人一人を祝福して、静かに息絶えました。幸いな感動的な最期であったと言われます。33節に、「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた」とあります。「先祖の列に加えられた」の「加える」は、ヘブル語で「アサフ」と言い、旧約聖書では3回しか使われていません。一つは33節の「ヤコブ」に使われています。もう一つは、25章3節の「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」です。三つ目は、35章29節の「イサクは息を引き取り、高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」です。また、「加えられた」は「祝福を受けた」という意味があります。「満ち足りて死に」という言葉の後に置かれています。アブラハムとイサクに「祝福の列に加えられた」ことは理解できますが、ヤコブが「祝福の列に加えられた」のには違和感があります。
アブラハムは、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしの示す地に行きなさい」という神の言葉を信じて、故郷のハランを断ち切って、新しい世界に出立しました。パウロは、アブラハムについて、「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」と言って、アブラハムの信仰を讃えています。イサクは、アブラハムが労苦して掘った井戸を、ペリシテ人が埋め、使えなくした井戸を掘り起こしました。それもペリシテ人と争うことなく、平和に掘り起こしました。イサクの生涯は古い井戸を掘り起こす地味で平凡な生涯です。アブラハムもイサクも業績は異なりますが、神に対して全幅の信頼と信仰をおいた生涯を送りました。その意味では、アブラハムとイサクが神の祝福の列に加えられるのは自然なことであると思います。
しかし、ヤコブはどうでしょうか。ヤコブはイサクとリベカの間に、エソウと双子で誕生しました。誕生のとき、兄エソウの足のかかとを掴んで、つまり、エソウと争いながら、生まれてきたと言われます。アブラハムやイサクと違って狡猾で、争いを好み、野心家で、狡猾で、歪んだ性格の成人に成長しました。エソウの弟に誕生したことを恨んでいました。族長時代には、長男に、全財産、資産の相続する権利があり、弟ヤコブには相続の権利がありませんでした。狡猾なヤコブは、策略を労して、長男エソウから長子の特権を奪い取りました。年老いて目の不自由なイサクに気づかれないようにエソウに変装し、近づきました。父イサクはヤコブの変装に気付かず、ヤコブを祝福しました。エソウの長子の相続権を奪い取ったのです。
裏切られたエソウは激しく怒り、ヤコブは父の家にいることができず、伯父のラバンを頼り、逃れて行きました。ラバンの娘ラケルとレアと結婚します。レアとの間に六人の子、レアの召使いジルバの二人の子、ラケルの間にヨセフとベニヤミン、ラケルの召使いの間に二人の子、十二氏族のイスラエル国家が誕生します。ヤコブは、十二人の子どもの中でもヨセフを溺愛し、兄弟間の紛争の種を作ります。兄を裏切り、伯父と確執を起こし、四人の妻を持つという罪と失敗のヤコブです。ヤコブは罪と弱さと破れを持っています。そのヤコブが神の民に加えられ、神の祝福を受けたというのです。つまり、神の恵みは人間の如何にかかわりがない、否それを遥かに上回る恵みと赦しであるというのです。神の恵みは絶対です。使徒言行録24章14節、15節に、「私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に即したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者にも正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いていています。」とあります。パウロのフェリクス総督の前でのイエスの救いの証言です。それを聞いたユダヤ人は「正しくない者が救われるはずがない」と激しく憤っています。それが常識的、普通の考えでした。しかし、パウロは、イエスの救いにとって、人間の能力や功績は問題にならない。ただ一方的に神の愛と恵みによって、与えられるというのです。
ルカ福音書13章10-17節に。イエスが、18年間も病気の霊につかれ、腰が曲がったままで、伸ばすことが全くできない、ひどい病気で苦しんでいた女の人と出会い、癒す物語があります。会堂司は、イエスが病気を癒すことを信じることができず、激しく憤ります。会堂司は、悪霊に取り憑かれ、身体が二つに折れたように曲がっている彼女の姿を見て、彼女の存在に何の価値を認めることができないので、切り捨てているのです。
しかし、イエスは彼女を切り捨てることはありません。人を見捨てるような見方をしません。逆です。そういう歪んだ味方や価値観と戦われました。16節で、イエスは彼女を「この女はアブラハムの娘なのに、、、」と言っています。イエスは、彼女が持っている能力、才能、知識、学歴、功績に関係なく、彼女の存在そのものに目を注ぎ、存在それ自体を肯定し受け入れています。
哲学者の森有正の父親は森明です。祖父は森有礼です。森有礼は、誤解ですが、伊勢神宮に不敬を冒したと、右翼に暗殺されます。明は、その時14歳でした。明は普通なら学習院の中等科2年生でしたが、退学し自宅に引き籠もっていました。持病の喘息で通学していません。明は、今の言葉で言えば不登校生で、落ち込む、劣等感に苦しんでいました。そのとき、文部大臣だった森有礼が心を込めてお世話をしたフランク・ミュラーという英国人の青山学院の英語教師が、引き籠っている明を家族の一員として迎え入れました。明は宣教師でもあったミュラーの感化を受け、母親と一緒に洗礼を受けました。ミュラーは、その人の才能とか力に関係なく、在りのままを受け入れる。人が後で得たものに何ら関係なく、この世的なものから自由にさせる信仰をもっていました。ミュラーの信仰が不登校で、落ち込んで、絶望している明を救うのでした。明は、成人し、牧師になりました。中渋谷教会を設立し、共助会を創設し、学生伝道に尽くされました。
12節に「イエスはその女を見て」とあります。この「見て」は「単なる見るではなく、より以上を見る、上を見る、真実を見る、愛を持って見る」という意味です。イエスは、二つ折れになった女の人の姿をただ見るのではなく、彼女存在、存在そのものを見ているのです。そして、イエスの愛の眼差しが、彼女を全く新しく生まれ変わらせ、神を賛美する者に変えられたのです。その信仰の事実を信じて受け入れて行きたいと思います。