-神はソロモンに神殿建設を命じたが、ソロモンが若くて未熟で、経験も乏しいので、ソロモンに代えてダビデに命じました。29章1節以下に。「ダビデ王は全会衆を前にして言った。『わが子ソロモンを神はただ一人お選びになったが、まだ若くして力弱く、この工事は大きい。この宮は人のためではなく神なる主のためのものだからである。わたしは神の神殿のために力を尽くして準備してきた。金のために金を、銀のために銀を、青銅のために青銅を、、、色彩豊かな石などあらゆる種類の宝石と大量の大理石を整えた。更にわたしは、わたしの神の神殿にたいするあつい思いゆえに、わたし個人の財産である金銀を、聖所のために準備したこれらすべてに加えて、、、、わたしの神の神殿のために寄贈する。今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか。』すると、家系の長たち、イスラエル諸部族の部族長たち、千人隊や百人隊の長たち、それに王の執務に携わる高官たちは、自ら進んで、神殿に奉仕し、、、鉄十万キカルを寄贈した。、、、、民は彼らが自ら進んでささげたことを喜んだ。彼らが全き心をもって自ら進んで主にささげたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。」とあります。ここで注目することは、「自ら進んで」という動詞が4回も使われていることから、「自ら進んで」が信仰の本質的であるということが分ります。「自ら進んで」は、「自分自身を駆り立て、喜んで、willing」です。B,C515年頃のマラキ書時代には、献げものが数量によって、つまり、十分の一献金が律法で規定されていました。しかし、ダビデ時代には、9節に「民は彼らが自ら進んでささげたことを喜んだ。彼らが全き心をもって自ら進んで主にささげたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。」とありますように。神は数量や規則や律法で規定してささげることは喜ばない、自ら進んでささげることを喜ばれるという信仰でした。律法や規則で定められ、決められたからささげるのではなく、自ら進んで、喜んでささげる、自由で、主体的信仰でした。
13–16節に「わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう。わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。」とあります。神殿を建てようと集めたものは、すべて神から出ているのですと祈っています。この祈りを見ると、神殿建築を通して、民の信仰を整えようとしていることが分ります。つまり、神への信仰を神殿や人生の土台にしているのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ3章9節に「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのよう建てるかに注意すべきです。」とあります。パウロは建物にとって土台が大事であるように、教会にとっても土台が大事であると言います。ルカ福音書6章48節には「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その倒れ方がひどかった。」とあります。人生は岩のような堅固な土台の上に建てなければならないと言います。言い換えれば、「一方的な神の恵みと愛」と「自ら進んで、自発的な信仰」とを土台にしなければとならないと言います。パウロは、「教会はキリストの体である」と言います。体にはいろいろな器官があり、それらの器官が一つになって、一人の人間になっている。教会も、いろいろと異なっている人が集められ、一つになっています。その中核になっているのが、「自ら進んで」の自発的な信仰です。「自ら進んで」は「喜んで」という意味です。その内実は、わたしのために自らを十字架にささげたイエスの愛であります。自ら進んでの主体的信仰と十字架に自らを献げられた神の愛が、人生と教会の土台であると言うのです
14節に「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。」とあります。ダビデは、「わたしたちが持っているものは、すべて神がくださったもので、わたしたちはただ、それをお返ししているに過ぎない。献げたものはすべて神からいただいたものですと言っています。コリントの信徒への手紙Ⅰ4章7節に、「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」とあります。わたしたちの持つ物はすべて、究極的には、所有・haveではなく、所与・givenであると言います。イエスは。マタイ25章14節以下で、タラントンの譬え話を語っています。ある主人が僕らに、タラントンを預けて旅に出しました。暫くして、旅から帰って来ます。すると、預けておいたタラントンを決算します。わたしたちが所有するものすべて、究極的には、神から一時時に預けられたものである。必ず、決算の時があると言います。出エジプト記3章14節に、「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるというものだ』と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方が
わたしをあなたたちに遣わされたのだと。」とあります。モーセが初めて神に出会うと、神は「わたしはある」と名のりました。言い換えれば、「すべてを創造し、すべてを支え、すべてを生かす存在である」となります。事実は、わたしたちが生きているのは自分の力によってではなく、神に生かされているというのです。
詩人の谷川俊太郎さんと「野の花診療所」の医師の徳永進さんが交わした書簡が、「詩と死をむすぶもの」と言う書名で出版され、ピチュアル・ケアーの医師ですキュブラー・ロさんついて議論を交わしています。彼女は脳卒中で倒れ、半身不随になり、ヘルパーに助けられながら、ひとり暮らしをされています。40年間神に仕えてきたのに、引退したら、脳卒中の発作が起き、何もできなくなりました。人は苦しみや困難に出会い、生きる力を喪失すると、神からの罰だと人生を呪う。しかし、自分自身の身に起こることに悪いことは、何一つないことに気付かなくてはなりません。どんな試練も、困難も、すべて神からの贈り物と受け入れなければならないと、ロス先生は言っていました。そのロス先生が、現実に、苦難の淵に投げ込まれると、神を呪い、神に怒り、運命を恨むのです。その事実を知ったとき、正直驚きまた、「苦しむ患者を助けてきたのに、なぜ自分を救えないのですか?」と質問しますと、「いい質問ね。人生では二つのことが大事なのよ、愛を与えることと、愛を受け入れることです。わたしは愛を受け入れるということに落第だった。自分を愛することなんてとんでもないと思っているから」と答えています。神様に愛されている。在りのままのわたしが神に愛されていることを受け入れ、信じることが信仰です、と答えています。神の恵みと愛を信じることが、神の神殿としての存在の土台です。その信仰の上に神殿、人生を建てていきたいと思います。