与えられたテキストはマタイ福音書10:34-39です。34節に「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」とあります。「剣」は「戦い、争い、分裂、敵対」という意味です。イエスが「戦い、争い、分裂させる、敵対させるために来た。」と言われる言葉を読むと、戸惑い、矛盾を感じ、恐れを抱きます。しかし、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」(ヨハネ16;33)、「平和を実現する人々は、幸いである。」(マタイ5;9)と言うイエス言葉を読むと矛盾を感じ戸惑いを持ちます。
マタイ福音書の編集は、ドミティアヌスローマ皇帝時代(81-96)と言われます。ドミティアヌスはキリスト教会に対して、ローマを全焼シ、キリスト教を迫害したネロ皇帝を上回る弾圧を加え、迫害しました。10:1以下に、イエスの12弟子の選びと派遣の言葉、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、ヘビのように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。」、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とあります。マタイの教会の課題と使命が、ドミティアヌス皇帝の迫害と弾圧に屈しないで、迫害と苦難に打ち克つ信仰と希望を伝えることにあったことを示しています。
34節に「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない」とあります。この「思ってはならない」は命令形で、強調のために、文頭にあります。直訳すると、「思ってもみるな。わたしが地上に平和をもたらすために来たことを。」となります。「思う」の語源は「慣習、常識、当たり前」という意味です。意訳すると、「当たり前のことと受け取るな。わたしが地上の平和安をもたらすために来たことを。」となります。「わたしが来た」という言葉は、イエスの来たことの独自性、大きな意味と使命が表されているいうのです。ローマ皇帝ドミティアヌスの弾圧と迫害に打ち克つ信仰を育てることに使命と意味があるというのです。
24節の「地上に平和をもたらすために来たと思ってはならない」の「地上」は、「国、地域」という意味です。「に」は前置詞で「ために」と言う意味です。つまり、地上に、国の平和のために、言い換えれば、「戦争や紛争の休戦や停戦で生まれる平和のために」となります。アハズ王やヒゼキヤ王がエルサレム神殿の宝物殿から金品を取り出し、アッシリアに贈って、得る「平和」のことです。朝貢(貢ぎ物)して得る平和、人間の知恵、人間の政策、外交や、力の均衡の平和を意味します。イエスはそういう「平和」をもたらすために来たと言いません、イエスの十字架による平和です。罪の赦しによる平和、平安です。イエスはどのような厳しい状況の中でも失わない平和、平安を与えようとされているのです。
35節に、「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」とあります。この「敵対する」は、「きれぎれに裂く、仲を裂く、分離する、離す」という意味があります。言い換えれば、「人をそれぞれに離す。依存やもたれ合いから離し、自律させる」となります。イエスの福音宣教の一つとして、人を実存的に生きる導きがあります。死を前にした人間のように、神外の何ものをも神としない、真の神のみを信頼していく信仰に導きました。その信仰が激しい迫害と苦難に打ち克つ道であると言うのです。
37節には、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」とあります。この教えを聞いた福沢諭吉は、勝海舟に「キリスト教は孝道(親孝行)を重んじるか」と尋ねたそうです。すると、勝海舟は、隣に住んでいたイギリス人の宣教師家族を見ていたので、「彼らの親を大切にすることは、我々の到底及ばないものがある」と答えたと言います。勿論、イエスは親孝行を否定しません。モーセ十戒に「あなたの父母を敬え。そうすればあなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」とあります。「敬う」は「愛する」です。父や母を敬う、愛するは、ギリシャ語で、「フィレオー」と言い、「惹かれる、魅力を感じる情愛」を意味します。心引かれる愛、フイレオーは状況が変われば変わる、有限的愛を意味します。イエスは有限的な愛を超える愛、普遍的、永遠の愛を教えています。イエスの十字架の愛、罪を赦される愛、罪人を許す愛、価値なきものを愛する愛です。息子や娘を愛する愛は、ギリシャ語で「フィレオー」と言い、人間と人間の水平の関係を表します。神を愛し、神が愛する愛は、「アガパオー」と言い、神と人間の縦の関係を表します。イエスは、水平の関係を大事にし、同時に縦の関係も大事にします。
35節を意訳すると、「人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲たがいさせるためである。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」」となります。この「人」は「水平」を意味し、その語源は「上」です。つまり、人間は、上、神に心を向けている存在、神に相対している存在であるという。つまり、他人との関係、水平の関係と縦の関係、神との関係にある存在であるという。そして。水平の関係ではなく、縦の関係、神との関係を本質とし、確立していく。旧約聖書では「神を信じる」ことと「確立される」ことを、同じ言葉、「アーマン」で表します。イザヤ書7;9「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」とあります。「信じる」は「縦の、神との関係が確立する」ことです。人が、その存在を確立させる。それが神を信じることであり、迫害と苦難に打ち克つことです。ヨハネの手紙⒈5;4「神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち克つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝うか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」。イエスこそ水平でなく、縦の関係です、縦の関係の確立、真の支えです。イエスを信じ受け入れ、従って行きたいと思います。