与えられたテキストはヨハネ福音書5:1-9です。38年間も病気だった人がイエスに癒やされた物語です。エルサレムに五つの回廊をもったベトザタという池があり、大勢の病人が横たわっていました。その中に三十八年も足の動かない人がいました。イエスはその病人を癒やされるのです。その癒しの出来事を通して、イエス・キリストの福音が語られています。
;6節に、「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間、病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。」とあります。この「知って」は「深く理解する、受け止める、共感する、人の苦しみを自分の苦しみと受け取る」という意味があります。イエスの愛の行動の動機、要因を表わす言葉です。ルカ福音書10章に「善いサマリア人」の記事があります。ある人が、エルサレムからエリコに下って行く途中で、追いはぎに襲われ、上着は剥ぎ取られ、半殺しにされ、倒れていました。そこを三人の人が通りかかりました。最初の祭司と、次のレビ人は、傷ついた人を見ましたが、道の向こう側を通り過ぎ、行ってしまいました。10;33、「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て、憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せて宿屋に連れて行って介抱した。」とあります。この「憐れに思い」は、原語はギリシャ語の「スプランクナ」で、「腸、はらわた」という意味で、「腹を痛めるほどの共感、同情」という意味です。サマリア人は、強盗に襲われ傷ついた旅人を見、お腹を痛めるほど共感された。つまり、人の痛みを自分の痛みにされたというのです。
この「憐れに思い」はギリシャ語の「スプランクナゼニサイ」と言います、ヨハネ5;5の「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、長い間 病気であるのを知って、『よくなりたいか』と言われた。」とあります。この「知って」は「スプランクナゼニサイ」で、「憐れに思い」と同じ言葉です。イエスは人の痛みや苦しみを自分のことのように 受け止め、受け入れ、寄り添う方であるというのです。イエスは「良くなりたいか」と尋ねています。「良くなりたいか」は、本来は、「願うか、気持ちがあるか」と、「意志」を問うています。イエスは心奥深くにある意志、意欲、動機を大事にし、求めています。意志、意欲がなければ、イエスとの関係は生まれません。イエスは、「治りたいか、救われたいか」と問い、意志、意欲、主体性を生み出させています。
預言者イザヤは、来るメシアを預言しています。イザヤ11;1,2に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊」とあります。この「思慮の霊」は「良き相談者、導き手、魂の癒し主、ワンダフル・カウンセラー」という意味です。この病人は、「直りたいか」と問われれば、「はい。直してください」と答えないで、「わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行」と言っています。池の水が動いたときに、一番先に池に入った者は、どんな病気でも癒やされるのだそうです。」と呟いています。それでら、この病人は、水が動くのかを待っていました。しかし、身体が不自由なので、先を越されます。それを何年も繰り返してきました。その内に、直りたいという思いを持たないようにしました。「諦めと絶望」です。太宰治の言う「罪」です。
;3に、「そこに三十八年も病気でいる人がいた。イエスは、その人が横たわって入るのを見、」とあります。この「横たわる」は「置かれる」という意味です。彼は人間としてではなく、荷物のように置かれていたのです。イエスは、荷物のように置かれた人間を、意欲と意志をもつ人間に創造し直すのです。;8節に、「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい』」とあります。「起き上がりなさい」は、「目覚める、眠りから覚める」という意味です。彼は、三十八年も長い間、病気で苦しんでいました、正に暗闇の中に置かれた荷物のように、光の見えない将来が見えません。ところが、イエスは、彼の実存を光の見える、希望のある将来へ向けさせ、目覚めさせようとしているのです。
「床を担いで歩きなさい」の「床」は、「三十八年年間の垢、汚れ、慣れ親しんだ習慣」を意味します「担ぐ」は、「捨てる、きっぱり縁を切る、身軽になる」など意味があります。ヘブライ人への手紙12;1で、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分の定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創設者また完成者であるイエスを見つめながら。」とあります。「絡みつく罪をかなぐり捨てて」は、古い自分を捨て、片付けて、新しくされて、イエスを見上げて歩む。新しく歩みを始めることを意味します。「歩きなさい」は、「ペリパティ」と言いまして、「目標を目指して歩む、目的をもって歩む」という意味です。イエスは、生きる目標・意味を失った人に、目標と意味を与え、目指して生かさように導かれます。パウロは、「救い」について、「生きる目標が与えられ、その目標に向かって生きること」と言います。フィリピ3;13に「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスのよって上へと召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。イエスは目的と意味を持った人生を与えてくださると言うのです。三十八年間と言いますから、彼の年齢も、かなりの年齢です。しかし、彼に新しい人生が与えられ、開かれるというのです。「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントⅠ4:17)と言われます。新しい者に生まれ変わらせていただき、新しい歩みを始めたいと思います。