与えられたテキストはマタイ9:27-38です。ファリサイ派の人々は、イエスが次々と病人を癒していくのを見て、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。悪霊の力を借りているからだ。」と悪口を言い、罵りました。イエスは、ファリサイ派の人々の悪口に対して、一言も言い返しません。イザヤ書53章7節の「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、口を開かなかった。」という「苦難の僕」の預言のように、イエスは口を開かず、沈黙しているのです。イエスは、罵られても、罵り返さず、悪口を言われても、言い返えさず、不思議な存在に見えるほど沈黙しています。また、心を込めて病人に仕えてきたのに、その働きを認められません。労苦は少しも報われません。しかし、イエスは、それでも、虚しいと虚無になり、人間不信に陥ることはなく、虚しいと呟き、嘆くこともありません。不思議な存在です.イエスは心を込めて病人を癒し、愛の業に仕え続けました。このイエスにメシアの人格、神の救済が語られています。
マタイ10:18に、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」:22に、「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」とあります。「耐え忍ぶ」は、「下に」と「とどまる」の二つの言語からなっていて、「逃げないで踏みとどまる、持ちこたえる」という意味です。イエスのために悪口を言われ、迫害されるが、逃げないで踏みとどまる人を意味します。「救われる」は「終末的希望、報われること」を意味します。パウロは「今、義の冠が待っている」と言います。勝利杯はアスリートでは、トップ、優勝者に贈られます。しかし、義の冠は、最下位でも、忍耐して完走した人に与えられます。言い換えれば 終末的な希望、勝利、救いです。イエスは。終末的な希望に基づいた忍耐をもって、困難を乗り越えて行く信仰は啓示しました。その意味で、イエスは「忍耐のメシア」です。
:35に「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気やわずらいを癒された」とあります。「ありとあらゆる」は、「すべての人、一人も残さず」という意味です。病人は皆癒されました。「町や村を残らず回って」」の「回る」は、「病人や患っている人々を見つけ出し、探して歩く」ことを意味します。重い知的障害者の止揚学園を立ち上げた時代のことですが、障碍を負った子供たちは、家の奥くに隠されていたそうです。その隠されていた子ども達を見つけ、引き出して、共同生活を始められたそうです。イエスは隠され、忘れられた病人や障害者を見出し、癒すために町々、村々をくまなく歩き回りました。
;36に、「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」とあります。なぜあのように忍耐強いのか。報われることを求めることなく、愛の業に尽くされるのか。人々にはイエスは不思議な人物に見えました。マタイ福音書は、「深く憐れまれた」と言います。この「深く憐れむ」は、イエスの忍耐強さと報いを求めない愛の業を産み出した、イエスの行動の原点、モティブ、動機です。「深く憐れむ」は、ルカ福音書15章の「放蕩息子の喩話」に使われています。;19の「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」に使われている、この譬え話のキーワードです。父親は、はるか遠くに、息子が変わり果てた姿で帰って来るのを見つけ、「憐れに思い」、走り寄り、抱き寄せ接吻した。そして一言も息子を責めず、新品の服を着せ、履物を履かせ、肥えた子牛を屠って、息子の帰還を祝いました。これら父親の全ての行動の原点は、「深く憐れむ」であります。放蕩息子の喩話の中心的な言葉です。
この「深く憐れむ」は、翻訳するとき、適当の言葉が見当たりません。「憐れむ」は、「かわいそう、同情」とは違います。ギリシャ語では「スプランクニゾマイ」と言い、「スプランクナ・内臓」から派生した言葉です、岩波訳「腸がちぎれる思いに駆られ」となっています。「スプランクナ」は「内臓、はらわた」を意味し、動詞になると「はらわたがちぎれる想いに駆り立てられ、深く共感する」となり、「人の悲しみや苦しみに腹を痛める」となります。この「深く憐れむ」は、福音書で12回、それもイエスとイエスを暗示する人物だけに、イエスの人格、救い主イエスに用いられています。イエスは力で支配する救い主、王ではありません。人の苦しみや悲しみに対して、腸がちぎれる想いに駆り立てられる共感、共鳴を抱く救い主、メシアです。
「飼い主のいない羊のように弱り果て」は、自分の力ではどうすることもできない大きな問題を抱え、苦しみ、悩むことを意味します。つまり、人生の不条理、矛盾の苦しみです。イエスは、世の不条理に、矛盾に苦しむ人を見て「腸がちぎられる想い」をしてくださり、人の悲しみや苦しみに共感し、腹を痛め、激しく心を動かし、救ってくださる救い主です。深く憐れまれるイエスが、救いの原点です。青年時代、心の彷徨を経験しました。魂が渇き切り、正に飼い主のない羊のように、どの方向に生きて行って良いか分からないで彷徨しました。その姿をイエスは見て、スプランクナ、腸を傷め、腸がちぎれる思いをされ、心を動かし共感してくださいます。深く憐れまれるイエスは、十字架の死で更に明らかになります。イエスはわたしの全ての罪を、「わたしが負う」と、全部引き受けてくださいます。「重荷を負う者はわたしの元に来なさい、休ませてあげよう」と言い、「生きよ、解き放たれて生きよ」と慰めてくださいます。腸がちぎる思いに駆られているイエスに動かされ、従って行きたいと思います。