新しい年を迎えお喜び申し上げます。今年も、ブログ「キリストの福音の聴く」でメッセージをお伝えしたいと思います。
ヨセフとマリアが幼子イエスを神に献げようと神殿に連れて来ました。そこにいたシメオンが、幼子イエスを抱き上げ、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」と神をたたえました。この「去らせてくださいます」の「去る」は、ギリシャ語で「アポルオー」と言い、「下から上に帰る、解き放つ、釈放する、自由にする、赦す」などの意味があります。漢字では「しんにゅう」に「折れる」の「逝く」で、「ポッキと折れるように逝かせてください」となります。意訳しますと、「神よ、あなたは今、わたしに死を与えられるのですね、わたしは喜んで受け入れます、安らかに、帰してください。」となります。シメオンの信仰が現れています。
しかし、現実は。安らかに、喜んで、死を受け入れることは難しい、大きな課題だと思います。パウロは、「キリストは最期の敵として死を滅ぼされた。死はわたしたちの最期の敵である」と言います。アルフォンス・デーケン神父は、死を受容するために、「死への準備教育」という講座を開き、多くの著書を出版しています。小説家の三浦光世さんは「死は最後の仕事」と言われます。妻の三浦綾子さんが御自分の死を安らかに受け入れ、死に打ち勝つ姿を御覧なって、人間にとって死を受け入れることは最後の仕事であるというのです。シメオンは、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」と神を讃えています。言い換えれば、心は平安に満ち、安らかに、下から上へ帰ることができます、となります。年の始めですが、最期の敵である死に打ち勝つ信仰ついて考えてみたいと思いました。
ヨハネ19章28―30節に「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け 、イエスの口元もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」とあります。この「成し遂げた」は、「終わる、実現する、目的、使命、目標を果す」という意味です。イエスは「目的、使命を果たした、目指す目標に達した」と叫んで、十字架の上で息を引き取られた、最後の敵である死にうち勝ったとなります。
テモテへの手紙Ⅱ4章6節に。「わたし自身は、既にいけとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」とあります。この「去る」は、シメオンのイエス賛歌の中で「この僕を安らかに去らせてくださいます」に使われている「去る」と同じです。言語には「下から上に帰る、自由にする」などの意味があります。イエスに出会い、罪から解き放され、赦され、安心して、逝くことができます、と言うのです。
7節に「今や、義の栄冠を受けるばかりです」とあります。「栄冠」はアスリートの勝者に与える月桂冠のことです。勝利者は、月桂冠を頭に被せられると、涙を流して。勝利の喜び、達成感に包まれます。パウロは死を前にして、アスリート勝者のように、喜びに満ち溢れ、「戦いを立派に戦い抜き」「走るべき行程を走り抜き」「信仰を守り抜きました」と、歩んできた苦難の人生を振り返り、神に受け入れられ、良い忠実な僕と是認されたというのです。さらに、それは、わしだけでなく、主が来られるのをひたすらに待ち望む人には、誰にも主の栄冠が授けられると励ましています
8節に、「正しい審判者である主が、かの日にそれを(義の栄冠)をわたしに授けてくださる」とあります。原文は、「だけ」の副助詞があります、「正しい審判者である主だけがか、、、」となります。審判者」というと、なにか恐れを持ちますが。この「審判者」は「クリテース」と言い、「評価する人、是認る人、認める人」ことです。「正しい」は、「義・デカイオス」で、「罪を許す、憐れみ深い」という意味です。コリントⅠ4章3節に、「わたしとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは自分で自分を裁くことをしません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでに先走って何も裁いてはいけません」とあります。この「裁く・アナクリノー」は「評価する、判断する」です、パウロは「自分で自分を評価しない。評価しては駄目だ」と言います。神谷恵美子さんは「判断中止、評価猶予」ということを言われます
敗北と勝利とをあなた自身で判断、評価しないと言われます。パウロは「主が来るまで先走って裁き、評価し、判定してはいけない。自分で自分を評価するのではなく、評価は神に委ねる。そして、その日には、義の栄冠をわたしに授けてくださる」。パウロは、誰にも来る終末、その日には、憐れみの主は、評価し、是認し、肯定し、忠実なよい僕と受け入れてくれると言います。柏木哲夫先生は、「死を学ぶ」という著書の中で、「死に直面した人の心を苦しめることの一つは、『果たして自分の人生に意味があったか』という問いです。そして、人生に意味があったと肯定的に答えることができる人は平安の内に生涯を締めくくることができる。逆に、否定的な答えしか見出せない人はと絶望の中におかれる。人は罪を負った存在すから、自分自身では、肯定的な答えを見出すことはできませ。絶対的な権威の神からの所与が必要です。」と言われます。シメオンは、「わたしはこの目であなたの救いを見たから」と言います。「あなたの救い」とは、イエスの十字架の赦し、所与 是認、肯定です。渡辺和子シスターの「置かれた場所で咲きなさい」が、ベストセラーになったことがありました。今置かれている場所が、神が置いてくださったところで、咲きなさい。仕方がないと萎むのではなく、咲くのです。自分が幸せに生き、他人を幸せにすることです。」と記しています。わたしたちも、自分の置かれた場所が、神から与えられた場所と信じ、自分なりの花を咲かせていきたいと思います。神を信じることのすばらしさを、福音を。希望を伝えることができる。そういう花を咲かせていくことができればと思います。