2025年10月12日 「神の国は来ている」 マタイ12:22-32  

与えられたテキストはマタイ福音書12:22-32の「ベルゼブル論争」です。;22、23節に、「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った。」とあります。口が利けないということは、耳も聞こえなかったのではないでしょうか。目が見えない、耳が聞こえない、口が利けない、三重苦です。その三重苦の人がイエスにいやされたというのです。「群衆は皆驚いた」の「驚く」は、ギリシャ語で「エクイテミー」と言い、「エク・外」と「テミー・出る,据える」とい二つ語からなっていて、「自分から離れる、自分を退ける」という意味があります。換言すると、群衆は頑なな、自己絶対化から脱し、自由になり、自分を変え、イエスをダビデの子、救い主と信じることができた。ファリサイ派の人々は、頑なな、自己絶対化から脱することができなかった。つまり、自分を変えることがないので、イエスを救い主、メシアと信じることはできなかったというま。

;24節には、「しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、悪霊を追い出せはしない』と言った。」とあります。ファリサイ派の人々は、「イエスは悪霊の頭ベルゼブルの力を借りたのだ。イエスは悪霊の仲間だ」と悪口を言い、頑なで、自己を絶体化し、そこから脱することができませんでした。言い換えると、ファリサイ派の人々は自己を絶対化し、自分を変える自由と信仰を有することができない。しかし、群衆は頑なな自己絶体化から解放され、自由になり、イエスをダビデの子、来るべき救い主、メシアと信じ受け入れることができた、と言うのです。

ルカ福音書五章一節以下に、ペトロが、イエスを罪赦す救い主であると告白する場面が記されています。ペトロは、その日、漁に出ましたが、雑魚一匹獲れないで、失望落胆し、岸辺に帰って、網を洗っていると、イエスが近づき「もう一度舟を出して、網を打つように」と言います。ペトロは「わたしたちは夜通し苦労しましたが、何も獲れませんでした。今日は舟を出しても無駄です、どうにもならない。」と頑ななに網を打つことを拒みました。しかし、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って。網を打ちました。そして、網を引き上げると、網があがらないほどの魚が獲れました。この出来事が契機となって、ペトロとアンデレはイエスを信じ従う決心をするのでした。この「お言葉ですから」は、「自分を脱して、離れて、自分の立つ場、生きる根源を変えて、主の言葉に立つ」という意味があります。ファリサイ派の人々は、自分の外に出ることはしませんでした。自分たちは神に選ばれたという特権意識と信仰的誇りを持っていました。律法を知っている、律法通りに生きている。イエスよりも経験も、知識もあり、律法を忠実に、熱心に守っているという自負心と誇りがありました。それだけに、自分の立つ位置と場を変えることができませんでした。ファリサイ派の人々の頑なと自己絶対化は、イエスの神の国の到来の福音の否定に現れました。

:28節に「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とあります。「神の国」の「国」は、country、国、国家ではなく、「神の支配」という意味です。神が来て、共におられる事実と信仰を意味します。ファリサイ派の人々は、神の国の到来、神の支配、神が共にいる事実を信じ受け入れることができませんでした。イエスの行ったことは、:9節の「一人の手の萎えた人のいやし」と;22節の「目が見えず口の利けない人のいやし」という、世の片隅で起こった小さな出来事です。ファリサイ派の人々は余りにも小さな出来事のために神の国の、神の支配の到来を信じることができませんでした。しかし、イエスは、小さな出来事を通して、神の支配が既に始まっていると、信じ、受け入れることを求めます。パウロは、神の国・支配の到来を、神からあらゆる苦難・試練に打ち克つ力と輝く勝利を賜ることと言い換えにています。イエスの信仰の本質的な神の終末的勝利と希望を信じることです。

イザヤ7;9に、アハズ王が北イスラエルとエフライムの同盟軍の侵略を恐れ、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。預言者イザヤは「主なる神は言われる、『信じなければ、あなたがたは確かにされない。』と」と言って、アハズ王を励ましています。この「確かにされる」は「立つ、生きる、生き伸びる」という意味です。言い換えれば,信じれば、立つ、生きることができる、となります。イスラエルの人々がバビロン捕囚で全てを奪われ失い、ユダ王朝は倒れ滅亡し、絶望と虚無に置かれます。そのとき。神は「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と、イザヤに言われます。イザヤは。神の言葉を信じ受け入れ、捕囚から解放され、神の勝利を賜ります。「神を信じなければ、確かにされない」という言葉は真実であり真理です。イエスも、目に見える現実がどうであれ、神の支配がすでに始まっている、神の導きがあることを信じ、受け入れることが信仰の本質であるという。

本谷有希子という俳優、作家、脚本家に「砂利」という脚本があります。主人公は五十歳代の男性です。彼は今、自分の心の奥深いところを見ると、空っぽ、何もないことに気付かされます。人生の空しさに襲われるという演劇です。本谷さんは、「自分は、大人になって,空っぽを感じたときの不安、恐怖を描きたい。そして、自分の自身の空しさ、虚無を追及していきたい」と言っています。パウロの「わたしはなんと惨めな人間だろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」という告白を思い起こします。同なテーマを取り扱っている演劇に、アサー・ミラーの「セールスマンの死」という演劇があります。主人公は腕利きのセールスマンでした。若い時から有能なセールスマンとして働いきました。人がうらやむほどの豪邸、豪華な生活を送っていました。しかし、やがて、大量生産と多量消費の時代となり。彼を必要としなくなりました。彼は次第に窮地に追い込まれていきます。息子との確執や定年を迎えることも重なり、絶望し、乗り馴れた高級車で壁に激突し、自ら命を絶っていくのでした。彼の葬式の後、妻は「家の35年ローンもやっと支払いが終わったのに、あなたはもうこの世にはいない」と、人生は不条理、皮肉、残酷さを嘆きます。何も残っていません。あるのは空虚、孤独です。詩編90;9に「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いに過ぎません過ぎ。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」とあります。虚無と空虚を告白しています。「われらにおのが日を数えることを教え、知恵の心を得させてください」と祈っています。イエスはそれに応えて、この深い淵である空虚から救おうとされています。「神の国は近づいた、悔い改めて、福音を信ぜよ」と言われます。「信じなければ、確かにされなと言われる言葉に促されて、主の言葉を信じ、受け入れ、従っていきたいと思います。