与えられた御言葉はハバクク3:17-19 フィリピ4:10-13です。作家の高史明さんは、半生を記した「生きることの意味」という著書されています。高さんは在日朝鮮人二世で、幼少のとき、母親が病死され、石炭仲仕の父親に育てられました。高さんは様々な職業を経験され、「夜がときの歩み暗くする」を発表し作家としてデビューされました。高さんには一人息子(真史君)がありましたが、小学校6年生のとき、命を絶ちました。多くの詩を書き残して逝かれ、「僕は12歳」を出版されました。高さんは、在日として厳しい世の中を生きていかなければならない、真史君に読んで欲しいという思いで、「生きることの意味」を書かれました。しかし、真史君は夏目漱石の「心」を愛読しましたが、父親の高さんの著書全く読まれなかったそうです。高さんは「生きることの意味」の中で、「人間は新しく生まれ変わらなくてはならない。見えている現実を超えた、見えないものを見る目を持たなければならない」と言っています。その真理は、真史君を失い、孤独と絶望を経験する中で、一層明確になったと述べています。
高さんは、息子真史君の喪失から、後悔と自責の念に打ちのめされ、孤独と絶望に陥り、癒しを求め、奈良に旅をされました。その日は夕陽が美しく、山々と樹木が黄金色に染まり、その中で、罪赦され、生かされている自分を発見するという回心を経験された。自分の力で、懸命に、努力して生きる、精進する。その中では、救われない、苦しみしか生まれない。生かされている自分を支えているのは,見えている現実ではなく、見えないもう一つの現実であるという思いに至った、と言うのです。
ハバクク書3:17に、「いちじくの木に花は咲かず。ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。」とあります。この言葉の背景には、二つの出来事があると思いす。一つは、南ユダ王国のヨシヤ王の突然の死です。ヨシヤ王はエジプトのメギドの戦いで、王ネコに敗れ、戦死します(609年)。ヨシヤ王は、エルサレム神殿の修復中、古い巻物の申命記法典を発見し、「正しい者は必ず冨み栄える。悪しき者は厳しく裁かれる」という申命記律法に基づいて改革を行いました。その改革中の突然の死です。ヨシヤ王の死は、多くの人々に精神的動揺を与えました。精神的支柱を失い、信仰的な疑いを生み出しました。「なぜ、ヨシヤ王のような信仰に忠実な王が滅びるのか?」「なぜ、神は、このようなことを赦されるのか?」「なぜ、神は黙っておられるのか?」と。人生の不条理と矛盾、神に対する疑いと不信を持ちました。もう一つの出来事はイスラエルがバビロンによって滅ぼされ、捕囚として連行されたバビロン捕囚です。南ユダ王ゼデキヤはバビロン軍に捕えられ、ネブカドレッアルの前に連行され、目の前で子たちは殺害され、両眼をえぐられ、鎖に繋がれてバビロンに送られました(列王記下25:1以下)。「なぜ、神は神の民のゼデキヤ王を見捨てたのか?」「なぜ、不義なる者が繁栄し、義なる者が苦しむのか」「なぜ、神は不義を見過ごされるのか」「神信を信頼し、従っているのに、どうして苦しみに遭うのか」と。ハバククの言葉の背後には、不条理と矛盾した現実を見て、希望を失い、絶望したイスラエル人々の現実があります。
;18に「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる。」とあります。この「しかし」は「たとえそうであっても」という意味です。想像を絶する厳しい現実、不条理と矛盾であっても、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに躍る、というのです。預言者ハバククの信仰告白です。この「喜ぶ」は、パウロのフィリピ4:4の「主において、常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」の「喜ぶ」と同じです。「常に」は「いつも、いかなる場合でも、喜べない状況の中でも」です。「主にあって」は「主に結びついて、繋がって」です。また、「神に目を向けて、神を見上げて生きる」という意味です。
ゼデキヤ王は、預言者ハバククの言葉に耳を向けないで、エジプトに援軍を求め、バビロンのネブカドネッアル王は反旗を翻しました。ハバククは、「エジプトの力、つまり、世の力、目に見える力を頼りにする限り、救いはない。この世の力ではなく、神を信じることを求め、世の力に頼らない信仰と勇気を求めよ。」と言うのです。ゼデキヤ王はバビロンの王ネブカドネツァルの猛威を見せつけられ、どうすることもできない、無力感に打ちのめされ、エジプトに走るのでした。預言者ハバククは「わたしの主なる神は、わが力」と言い、神以外に依る頼む者はない、力強い神を信じることを勧告します。
ハバクク2:3,4に「定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終りの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る,遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」とあります。「神に従う人は信仰によって生きる」の「よって」は「基づく」という意味です。言い換えれば、神に従う人は信仰に基づく希望に生きる、どのような状況に出遭っても、打ち克って生きる、となります。
マックス・ウエバーは、「資本主義が高度に発達し、物質的な豊かさが世を覆う時がくると、それに伴い、精神のない専門人と、心情のない享楽人が現れる。人は物質的豊穣の中を生きるとき、真実な生きる道を見失う、冨の欲求のために、心はすさみ、孤独と虚無に苦しみ。」と言っています。「貧すれば鈍する」という諺があるように、貧困になると、心も貧しくなり、ゆとりを失い、心を歪がめます。しかし、ハバククやパウロは、迫害に苦しめられ、貧困になっても、信仰によってそれに耐え、自由を失うことはないと言います。フィリピ4;11-13に「貧しく暮らすすべも、豊に暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足しても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」とあります。パウロは、「ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしには可能です」と言っています。神のお陰で、出来ないことはない。神は、出口のないような現実の中に置かれても、その現実を超えさせる道を、希望を与えてくださる。周囲の事情がどんなに暗くても、神に希望を見出していく、苦難と試練に打ち勝っていく。ヨブ記14:7に「木には希望がある。木は切られても、また新芽を吹き、若枝は絶えることはない」とあります。「イチジクの木に花は咲かない。ぶどうは枝をつけず」とは、希望を失った絶望を表現しています。もう、駄目だ、どうすることも出来ません、しかし、わたし主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る、とハバクク言います。