2025年10月26日 「信仰の原点」エゼキエル3:1-11 ヨハネ15;1Ⅰ-17

与えられたテキストはエゼキエル3:1-11とルカ19:8-10です。エゼキエルが預言者に召命された経験が記されています。3;1に、「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』。わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」とあります。エゼキエルは神の言を「聞く」というところを「食べる」と表現しています。それは、エゼキエルの特色で、神の言葉を主体的に、自分に直接語りかけていると受け取ることを強調しています。イエスも、イエスが語る言葉が自分に語りかけていると受け取ることを求めています。ルカ14;19以下の「大宴会のたとえ」も、その一つです。イエスが「わたしに従って来なさい」と命じると、ある人は「畑を買ったので、見に行かなければなりません」と断り、ある人は「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行かなければなりません」と断り、ある人は「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と断りました。イエスは言われました。『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻,子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。』」とあります。イエスの言葉を主体的に、自分自身に問われていると聞き、応え、従うことが信仰の本質である事実を示しています。

「わが涙よ わが歌となれ」の著者、原崎百子さんは、四十三歳で、四人の子どもを残して、亡くなられました、その手記が出版され、多くの人に感動を与えました。原崎さんは、癌と知りつつ、最後の最後まで、希望に満ちた生涯を生き、子どもたちに、死は永遠の命につながる希望であり、神は最後まで愛し続けているというメッセージを残して逝かれました。原崎さんが、主の栄光に輝く生涯を生き得たのは、神の召命という信仰だと思います。「大学の礼拝で、「神と自らを献げる契約を交わした。その約束を神は守ってくれたし、完遂しようとしてくださった」と、亡くなる直前に記しています。原崎さんは。エゼキエル的に言えば、「御言葉を食べて」、神と交わした契約の上に人生を築かれたと思います。

:3に「言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』とあります。「満服するまで、腹一杯、巻物を食べよ」と言うのです。それは「人々に御言葉を伝えるために」です。預言者は、神の言葉を預かる者、預かった言葉を人々に向かって語る者のことです。エゼキエルは、預かった神の言葉を人々に語る使命を与えられました。

:4に、「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい」とあります。「イスラエルの家」とは、イスラエル人々のことです。イスラエルの人々は、今バビロン捕囚の苦難の中におかれています。神に背き、神の言葉を食べず、従わなかったためだというのです。:7に「しかし,スラエルの家は、聞こうとはしない。まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。まことにイスラエルの家はすべて、額は硬く心も硬い。」とあります。「心も硬い」は、「固い石の心、頑なな、冷たい、無関心、硬直した心」のことです。イスラエル人々は苦難を負わせた、と神を恨み、憎んでいました。エゼキエルは、ヨナが頑なな、堅い心のニネベに遣われたように、イスラエルの家に遣わされるのでした。

エゼキエルは、バビロン捕囚民の中の一人です。南ユダはバビロンのネブカドレツァル王との戦いに敗れ、時の王ヨヤキンや上層階級の者が捕囚としてバビロンに連行されました(第一回捕囚、BC598年)。その中にエゼキエルも入っていました。それから5年後(BC592年)、ケベル川の河畔で、預言者として召命を受けます。5年後第二回目の捕囚が起こります。バビロン軍はエルサレムに侵略 破壊しました。時の王ゼデキヤは両眼をえぐり出され、王子たちは殺され、鎖に繋がれてバビロンに、重立った人々と共に連行されました。

エゼキエルはそのことを予感し、たびたび警告し、「神に立ち帰って、悔い改めなければならない」と語りました。しかし、頑なな、石の心のイスラエルの人々はエゼキエルの言葉に耳を傾けることはありませんでした。エゼキエルは恐れ、心はひるんだと思います。だから、神は、「彼らを恐れ、彼らを前にたじろいではならない」と励ましています。忍耐し、絶望しないで、諦めないで、語り続けよ、と言うのです。

:11「たとえ彼らが聞き入れようと、拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい」と命じています。結果は主に委ねるのです。失望落胆しないで、諦めないで、神は報いてくださることを信じて、語り続ける。実際エゼキエルはそのように生きました。その力の原点は、エゼキエルの神の召命経験にありました。原崎百子さんは、神と交わした契約と言っています。エゼキエルは、ユーフラテス川の支流のケべル河畔で、神の栄光を見せられ、神との出会いを経験し、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、」とイエスが言われたように、神に召されたという信仰、使命が、エゼキエルの原点でした(ヨハネ15:16)。

ルカ福音書の徴税人ザアカイは不思議な導きによって、イエスと出遭います。イエスと出遭った後、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」と約束しています。イエスに出遭って彼の生き方は変えられました。その後の彼の人生は、この出会い、原点の上に築かれました。牧ノ原やまばと学園長であった長沢巌牧師は、青年時代、盲腸炎から腹膜炎を併発して、死を宣告されました。その時、先生は、「もし、生命を与えられるならば、神様にこの生命を献げます」と誓いました。その時、不思議に、奇跡的に死を免れ、命を得ることができたそうです。その後の榛原教会牧師、やまばと学園長としての長沢先生の生涯は、神との契約と約束の上に築かれています。神はエゼキエルに、「その巻物を食べよ。そして、行って、語れ」と言われます。それぞれ神と出会いの原点を持っています。神と交わした契約を思い起こし、その約束に委ねていきたいと思います。