与えられたテキストはイザヤ38:1-20 ヘブライ4:15です。イザヤ書38;17に、「見よ、わたしの受けた苦痛は、平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにしてくださった。」とあります。「わたしの受けた苦痛」とは、;1に、「そのころ、ヒゼキヤは死の病にかかった。」とありますように、ユダ王国王ヒゼキヤ(BC715-687)が、重い病にかかり、死の宣告を受け、死の恐怖と絶望に苦しんだことを意味します。:1に、預言者、アモツの子イザヤが訪ねて来て、「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言しなさい。』と言った」とあります。ヒゼキヤ王の死の宣告ですから、ヒゼキヤは受け入れることができず、壁に向かった大声で泣き、祈りました。
;4に、「主の言葉がイザヤに臨んだ。『ヒゼキヤのもとに行って言いなさい。主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き,涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたの都を救い出す。わたしは都を守り抜く。』」とあります。主は、ゼキヤ王の祈りを聞き、流す涙を見て応えてくださると言っています。
:10以下に、ヒゼキヤのミクタム、祈りの歌があります。:16には「主が近くにいてくだされば、人々は生き続けます。わたしの霊も絶えず生かしてください。わたしを健やかにし、わたしを生かしてください。見よ、わたしの受けた苦痛は、平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ,滅びの穴に陥らないようにしてくださった。」とあります。「苦痛」は「苦難、試練」という意味、「平和」は「幸福、平安」を意味します。「苦難、試練は平和、平安、幸福をためである」というのです。イザヤ、ヒゼキヤの信仰です。常識的には、苦痛や苦難は、人を苦しめ、不幸にすると考えます。しかし、イザヤ、ヒゼキヤは逆説的で、苦痛から幸福、平安、平和が与えられるというのです。
知人が身体の悪くし、病院に検査を受けに行かれ、癌が見つかり、精密検査の結果、大きな手術を告知されました。ただ事ではありません。晴天の霹靂です。しかし、彼は落ち着いていました、「全て神に委ねます」と言われました。篤い信仰をもっている方でした。神を全幅に信頼する信仰で、窮地を乗り越えました。また、一人の青年ですが、彼はひどいいじめで、中学、高校と不登校で、その後も長く家に引き籠っていました。ようやく、働かなければと、アルバイトを始めました。しかし、いじめがトラウマになって、人との付き合いが難しく、何をしても長続きがしません。偶然小さな鉄工所の職場が与えられました。その経営者や働く人は理解の深い人たちで、彼を受け入れ、3年も続いていました。それが4年目の始めに、社長から、不況で、経営は続けていけない、会社を閉鎖すると言われました。社員、同僚は涙を流して残念がりました、一寸先は闇という諺がありますが、突然思っても見ない危機に直面させられます。彼は教会の先生や友人に導かれ、イザヤの言葉を受け入れ、信じる者になり、危機と苦難を克服することができました。信仰は、危機に直面させられたとき、力を発揮し、危機を乗り越えさせると思います。
音楽家、作曲家、元ザフォーク・クルセダーズのマンバーの加藤和彦氏が自死されました。学生時代に深夜放送でよく聞きました。「悲しくてやりきれない」という名曲があります。「胸にしみる、空のかがやき、今日も遠くながめ、涙をながす、悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない、このやるせなさ、モヤモヤを、だれかに告げようか」。「悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない、この限りない、むなしさ、救いはないだろうか。」。サトウハチローの詩です。暗くて、わびしい、虚無的歌です。「このとてもやり切れない思いを告げる者はいない。この限りない、空しさから、救う者はない」と。加藤和彦氏の死を予告しているような歌です。絶望から救う道はあるのか、と問は考えさせられます。
ヒゼキヤ王は、「顔を壁に向けて、主に祈った」とあります。パウロは、コリントⅠ10;13で、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と同時に共に、逃れる道を備えていてくださる」と言っています。絶望から救われる術は、目に見えない神を信じる信仰にあると言う。ヒゼキヤ王は、「あなたはわたしの魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにしてくださった」と言っています。「陥らないように」は「命綱を投げる」と言う意味です。神が命綱を投げくださる。そこに救いがあるということを信じたいと思います。
「苦痛」は、ヘブル語で「マーラル」と言い、原語は「変えかれる」という意味があります。苦しみ、苦痛は「人を変える、生まれ変えらせる」というのです。ヒゼキヤ王は、この出来事を契機に、その後15年生かされます。人が変わったように、善政を行いました。度々戦争を起こし敵対関係にあった北イスラエルの人々が、アッシリアに滅ぼされ捕囚として連行されると、ヒゼキヤ王は、北イスラエルに救いの手を差し伸べます。また、貧しい生活をしていたレビ人や外国の寄留者や寡婦や孤児を手厚く扱っています。ヒゼキヤ王の苦痛は、敵を愛する、貧しい者を思いやる愛を生み出しています。信仰をもっての「苦痛、苦難」は、人を生まれ変わらせると言うのです。パウロは、ローマ5;3「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す。」と言っています。「練達」は「人格、品性、思いやりの心」という意味です。
ヘブライ4:15「この大祭司は、弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」とあります。「弱さに同情する」は「弱さを思いやる心」という意味です。ギリシャ語で「スプランクゼニサイ」と言い、原語「スプランクナ」は「腹、腸」という意味で、「お腹を痛めるほどの思いやり、優しさ」という意味です。苦痛は「弱い人を思いやる心」を生み出す。苦しみから生まれる弱さを思いやる心は、平和の、平安の、幸福の源だと言います。そこに苦難、試練の意味があるといいます。
チベットのダライ・ラマ14世は「自分も他人も心が安らぐ瞬間(平和、平安)を望んでいる。だから他者への思いやりの心を持たなければならない」と言っています。この混乱した、争いと紛争の絶えない世界に「他者への思いやり」を発信されなければならないというのです。児童精神科医平井信義氏は「40数年にわたって子どもと関わり、研究を続けてきた結論として、子どもに『思いやりと意欲』を育てれば、必ず立派な青年になると確信している」と述べています。思いやりの心の大切さを言っています。「苦難は忍耐を、忍耐は練達(思いやりの心)を生み出す。練達は希望を生み出す」と言います。この言葉を信じていきたいと思います