与えられたテキストはエレミヤ29:10-11、31:31-34です。南ユダ第十代王ウジヤは、16歳で王位に就き、52年間治めました。非常に有能な王で、港を建設し、通商の発展を図り、兵力を整え、エルサレムの城壁を補強し、畜産農業を奨励し、当時の新技術を取り入れ製造業にも力を注ぎ、王国最高の繁栄に導いた最善の王でした。しかし、晩年は目を覆うほど惨めでした。重い皮膚病に襲われました。当時の重い皮膚病は隔離され、ウジヤ王も隔離され、神殿にも近づけず、政治に携われず、孤独に一人で死んで逝き、王家の墓に納められず、荒れ野に葬られました。大変良い政治を行ったのに、人生の不条理を認識させられます。歴代誌下は、ウジヤ王を一層惨めにしたのは、重い皮膚病に冒されるという不条理を、ウジヤ自身が受け入れられず、神を恨み、人生を呪い、絶望したことにある、と記しています(26章)。ウジヤ王の後を継いだヨタム王は主なる神の御前をたゆまずに歩き続けたと記しています。歴代誌は、ヨタム王は不条理な出来事に出会っても絶望し、虚無に陥らないで、希望を持って生き、不条理な出来事にも神の御心がある、神の御心を見つけていくことに努めた、と記しています(歴代誌下27章)。ヨタム王とウジヤ王の生涯は苦難に出会ったとき、どう受け止め、どう対処していくか、を示していると思います。
テキストの預言者エレミヤの活動の時代ですが、ユダ王国はバビロニア帝国の侵略に抵抗したが、敗れ、滅亡し、イスラエルの人々は捕囚され、バビロンに連行されました。エレミヤはバビロニア王ネブカドネツァルの親衛隊長ネブザルアダンによって、エルサレムに留まりました。バビロンに捕囚された人々は、毎日バビロン川のほとりに座り、シオン(エルサレム)を思い出して、泣いていました。バビロン人が、主なる神をイスラエルを守ることもできなかった愚かな神であると軽蔑し、その愚かな神を讃える歌だと馬鹿にする歌を、歌えと命じられ、悔しい思いで歌はなければならない、辛い、悲しい日々送り、悲嘆に暮れていた、と言います。
31:16に、「主はこう言われる.泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある」とあります。エルサレムに残されたエレミヤは、絶望している捕囚の人々に希望や慰めを与えよと命じられます。神は泣きやむがよい。目から涙を拭いなさい。あなたの苦しみは報いられる、と言われる。
29:10,11に「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたがたのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平安の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」とあります。神は、徹底的に打ちのめされて絶望のどん底にある人々を、励まし、立ち上がらせようとします。エレミヤは愛の神を知るのでした。捕囚いう悲劇的な出来事に直面して、不条理な出来事が神の計画、神の導きだと信じ、未来と希望を見出しているのです。
31:31―33に「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破ったと主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」とあります。「律法」とは「教え、救いに至る道、崩壊したエルサレムの再生の道」を意味します。それを石の板のではなく、胸の中に授け、心に記す,と言うのです。言い換えれば、宗教の個人化と内面化です。それまでユダ国が滅亡したのは、神に背いた国家、民族の罪のためであると考えていました。罪は、国家とか、民族の問題で、一人一人の個人の問題になっていませんでした。神との関係も、国家、民族の関係で、人格的な関係、主体的関係になっていません。それでは真の信仰にはならない。神と一人一人の、主体的な関係と捉え、「神、あなたとわたし」の関係が、信仰の根底になっていない。その信仰的事実が捕囚という苦難から明らかになった。言い換えれば、新しい救いの道を知ることができたというのです。
これまでの律法は、人間を外側から規定するものでした。「~をすれば、救われる。~しなければ、罰せられる」と、人間を外側から規正してきました。捕囚は、外側からの規正では、滅びから救うことができない事実を示しました。一人一人の個人の内側からの湧き出てくる思い、それに基づく人間になる。イエスは「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に一ミリオン行きなさい」と言われました。一ミリオンは強いられていきますが、もう一ミリオンは主体的、自発的に行きなさい。この一ミリオンに救いがあるというのです。「ねばならない」という思いからではなく、「そうせずにはいられない」、自由と主体的な生き方に変えられる。新しい生き方を与えられたのです。エルサレムの滅亡と捕囚を契機に、180度の転換をして、新しい未来と希望を見出しているのです。苦難の中から新しい在り方、生き方が与えられるのです。
韓国のオペラのテノール歌手ベー・チェチョルと言う方がおられました。ヨーロッパで実力が認められ、アジアを代表するテノール歌手でした。そのベー・チェチョルさんが突然甲状腺癌に襲われました。手術をされ、歌手に命である声帯のかなり部分を取り除かれたそうです。思っても見ない試練に直面されました。ベー・チェチョルさんのバビロン捕囚です。「癌になる直前は、それまでの歌手生活の中で最高の状態でした。すべての面で自信に満ちていた」と。順風満帆の中での甲状腺癌を発病、なぜ神は不条理なことに遭わせるのか、神は本当にいるのか、疑いや不満を抱くことが普通ですが、チェチョルさんは、そうではありませんでした。「わたしは知らず知らずのうちに神以外のものを第一にしていました。神はそのことを悟らせるために、わたしのとても大切なものを取り去ったのです。この苦しみが、オペラのことで一杯だったわたしの心を整理し、神さまと一対一の関係で向き合い直すための機会となりました。」と、「声が出ないという現実は、自分の努力でどうにかできるものではなく、ただ神に頼るしかありませんでした。その事実を認めて、『わたし、神の力は、弱さのうちに完全に現れる』という言葉をひたすら信じ、祈りました」と記しています。ベー・チェチョルさんのバビロン捕囚、苦難から確信、将来と希望、意味を見出されました。誰にも一度は捕囚があります。その捕囚は、将来と希望、新しい人が生まれるためです。その事実を信じていきたいと思います。