2025年12月14日 「主のお言葉どおりに」ルカ1:26-45

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与えられているテキストは、ルカ福音書1;26-45のマリアの受胎告知です。マリアが、神の子イエスの母になることを告知される場面です。天使ガブリエルが、神から遣わされて来て、その事実を告げます。:28に「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。』」とあります。「恵まれた方」には、「既に、今までずっと」という副詞があります。「今までずっと恵まれている方」となります。「恵まれた」は「賜物を与えられた、赦しが与えられた、恵みをもって選ばれた」という意味があります。言い換えると、「ずっと恵みをもって選ばれた方」となります。この後、マリアは激しい葛藤の末、イエスの母に成ります。;35-38に「天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年を取っているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。』マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」とあります。マリアが不条受け入れがたい神の言葉を受け入れる決断には心打たれますが、マリアの決断の前に、神の御旨があると言うのです。神の選びが先立ってあると言うのです。

ヨハネ福音書では、イエスは、最後の晩餐の席上で、弟子たちの足を洗います。イエスが弟子たちの汚れた足を洗うのですから、弟子たちは驚いて、「洗わないでください」と、激しく抵抗します。すると、イエスは、「わたしが洗わなければ、わたしとの関わりはなくなる」と言われます。イエス自らが働きかけ、関わりをも持ってくださると言うのです。弟子たちの洗足が終えると、「あなたがたが、わたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ」と言っています。弟子たちの選びに先立って、イエスの選びがある、というのです。マリアも、大きな決断をするのですが、その前に、神の導き、選びがあると言うのです。

:28「おめでとう。恵まれた方」の「恵まれた方」は、協会訳は「恵まれた女よ」と呼びかけになっています。山浦訳は「慈しまれたる者よ」となっています。原文は「クレオ―」と言い、「召命」と翻訳されます。「召」と「命」と書きます。国語辞典、広辞苑にもない言葉で、キリスト教特有の言葉です。「神が使命をもたせて召す」という意味です。マリアは、キリストの母となる使命をもって、神に召された、マリアの信仰は召命だと言うのです。

日本基督教団の教師になるには、教師検定試験、学科試験と面接試験があります。牧師になろうとする「召命」を問うのです。召命は、神と教会に仕える教師には不可です。神に招かれているという召命感が根底にないと、続けるのが難しいと言われます。しかし、召命は、教職だけでなく、信仰者全部に関わることだと言われます。プロテスタント教会は、ルターの万人祭司説以来、教職と信徒の身分、階級;ヒエラルキーの差異はない。信仰者は誰も、神の召しを受けていいます。マリアの召命は、信仰の本質的に関わることだと思います。

「おめでとう、恵まれた方」とあります。イエス時代の「挨拶だ」そうです。「おめでとう」の語源は、「めでる」だそうです。「めでる」は「愛する、慈しむ」です。「神の愛と慈しみの眼差しが注がれているよ」という意味です。1;47に「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった神を喜ぶ」とあります。この「神を喜ぶ」は、「主は目を留めてくださっています」という意味です。言い換えれば、神は「よし」と肯定してくださった、となります。

「マリア」は、「頑固、頑な、強情」という意味だそうです。そのマリアを「よし」と肯定されるのです。:30に、「ガブリエルは言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神からすでに恵みをいただいた。あなたは身籠もって男の子を産む。』」とあります。マリアの時代は、律法で結婚していないのに、子を身籠もることは許されませんでした。また、「あれは大工の息子ではないか、母親は、あのマリアではないか」と蔑視されました。マリアは「わたしは貧しい、身分の低い、はしためです」と言っています。しかし、神は、そのマリアに寄り添い、「よし」と肯定されるのです。イザヤの「わたしの目には、価高く、尊い」の言葉のように、マリアを肯定し、愛されるのです。

ある青年が、近くのマンションから飛び降りて、自死されのです。教会バザーのため忙しくしていました。そこに、教会員が危篤という知らせがあり、わたしは病院に行かければならくなりました。その時、青年が訪ねてきました。わたしは「ちょっとごめんネ」と言って、帰って頂きました。すると、彼は自宅に帰らず、近くのマンションから飛び降りたのてす。わたしは大きなショックを受けました。牧師の責任を果たせない自分を責め、落ち込んでいました。傍にいながら、何もできない無力さに打ちひしがれていました。その時、或る精神科の先生が慰めてくださいました。「精神科の医師でも、どうすることもできない現実がある。人に真の命と永遠の希望を与えることができるのは、神、主イエスを他にしてない」と言われるのです。天使ガブリエルのマリアの受胎告知とマリアの神の賛歌は、その信仰的事実を伝えています。。その事実を受け入れ、従っていきたいと思います。