イエスは、生まれ育ったガリラヤに帰り、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、福音宣教を始めました。すると、すぐに、律法主義者やファリサイ派の人々はイエスの宣教を妨害し、攻撃しました。ルカ福音書4;28には、「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」とあります、マルコ福音書3;6には「その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうか相談し始めた。」と。ヨハネ福音書4:44には「イエスは自ら、『預言者は故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」と、マルコ福音書14;1には、律法学者たちは、なんとかイエスを捕らえて殺そうと考えた。」とあります。このように大変厳しい状況の中で、イエスは12人の弟子たちを選び、宣教に遣わします。マタイ福音書10;16には、「わたしはあなたがたを選び遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」とあります。イエスは事あるごとに、弟子たちに神の救い、恵み、赦し、信仰について語り、教えています。
イエスは、或る日、大勢の群衆が集まったので、「種を蒔く人」のたとえを用いてお話をされました。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った、蒔いている間に、或る種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に堕ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。またほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聴きなさい』と、大声で言われた。」、この「聴くは「信じる」という意味です。イエスは「信じなさい、信じると「希望」が与えられるというのです。「百倍の実を結んだ」の「結んだ」は、本来は未来形か、現在形で、「百倍の実を結ぶ」となるところを、「百倍の実を結んだ」と過去形にしている。それは「必ず、百倍の実を結ぶ」確かさを強調しているからです。イエスの言葉、約束は必ず成就します。
アルベルト・カミュというノーベル文学賞作家がいました。カミュは「人生は『シーシュポス』の神話」になどって、不条理」と言います。シーシュポスは「ギリシャ神話に出てきます。火を盗んで、神の怒りに触れ、山の頂上に大きな石を運び上げる重労働の刑罰を課せられます。それもただ運び上げるのではなく、山頂に押し上げたとたん、大きな石は麓に転げ落ちていきます。そうすると彼は麓まで戻って、再び、大きな石を山頂まで、押し上げていく。また、転げ落ちる、また、押し上げる。シーシュポスは一生、意味のない労働のくり返しです。しかし、シーシュポスの偉大なところは、不条理に毅然と戦うところだと思います。「シーシュポスは、乱れぬ足取りで、終わりのない苦悩に向かって再び山を登っていく」と述べています。シーシュポスは不条理に屈しないで、勇気をもって果敢に向かっている。人間は強靭な精神を持ち、毅然と生きる存在であるというのです。イエスは、「種が良い土地に落ちると、百倍の実を必ず結ぶ」と励まし、慰めてくれます。イエスの言葉を信じていきたいと思います
小説家の山本周五郎は、「赤ひげ診療譚」の中で、「人間ほど尊く、美しく、清らかで、たのもしいものはない。俺は身を徒労に一生を懸けても悔いはない」といっています。赤ヒゲは貧民のために幕府が開いた小石川養生所の所長です。身を粉にして貧民のために尽くしても、誰にも顧みられず、評価もされない。いつも粗末な扱いを受けていました。そこに、幕府のお目付け医を目指して。長崎に遊学し、西洋医学を修得して、江戸に帰ってきた保本登という研修医が派遣されてきました。養生所は貧民街にあり、近くには遊郭街がありました、親の借金のために身体を売る女の子もいました。遊郭から連れ出し治療させるのですが、直ぐに組織に連れ戻されます。組織から痛い目に合わせられます。青年医師の保本の労苦は何も報われません。青年医師安本は、何のために生きているのか、虚しい思いに襲われ、絶望します。その時、赤ヒゲは「俺の考えること、してきたことは徒労かもしれないが、俺は自分一生を徒労に打ち込んでもいいと信じている。徒労に一生をかけても悔いはない」と言いました。赤ヒゲは、働いても、報われない、努力しても、結果が得られない、甲斐がない、それでも、短気になったり、諦めたり、虚しく思ったり、失望したりしないで、報われることは少なくても徒労に掛けると言って、貧民のために懸命に働き続けました。赤ヒゲは強靭な精神を持った人です。イエスを思い起こします。原作者の山本周五郎は福音書を熟読されたのではないかと思います。労苦は報われるというイエスを愛していたのではないでしょうか。
詩編126編5,6節に、「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」とあります。この詩編も、労苦が、報われないで、虚しく終えることはない、と言います。しかし、現実は、「赤ヒゲ」の「保本登」が、虚しい、悔しい思いをさせられ、苦しみます。現実は、徒労だと呟き、嘆かざるを得ないことばかりです。しかし、神の事実は違うというのです。蒔く種の99%踏みにじられ、無駄になったとしても、最後の一粒が良い地に落ち、受け入れられるから、百倍の実を結ぶ。現実は厳しいが、真理は必ず勝利をおさめる、と。九十九の種が実を結ばなくても、一つの種が良い地に落ち、生え出て、百倍の実を必ず結ぶという言葉をもって、弟子たちを派遣します。弟子たちへの「はなむけ」の言葉です。弟子たちに生きる根拠を与え、励まし、希望を与えています。弟子たちに徒労に終わることはない、必ず報われることを教えています。