与えられたテキストはマタイ福音書16:21-17:8の「イエスの姿が変わる」です。17:1に、「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」とあります。この「高い山に登る」が深い意味をもっています。創世記19章の「ソドムとゴモラ」が罪を重ね、堕落したために滅ぼされるとき、神はロトに「低地に留まるな。山に登れ」と命じ、救い出しました。預言者エリヤがアハブ王の迫害を受け、耐えかねて、ホレブ山の頂きに逃れ、身を隠していましたとき、神は、エリヤに現れ、「そこで何をしているのか。立ち上がれ」と命じ、勇気と希望を与えました。出エジプト時代、モーセがイスラエルの人々を導き、奴隷の地、エジプトを脱出し、荒れ野を40年間彷徨しました。飲み水と食料を得られず、飢えと渇きで苦しみました。苦しみの余り、イスラエルの人々は、解放と脱出を導いたモーセを憎み、恨みました。奴隷の苦役から自由を求めてはずなのに、飢えと渇きの苦しみを与えると、モーセを恨み、石で殺そうとしました。そのとき、神はモーセに「山に登りなさい」と命じました。この「山に登りなさい」の神の言葉に、モーセは従いました。モーセは、ヨシュアを連れ、シナイ山に登りました。そして、十戒を与えられました。
ルーサー・キング牧師は暗殺される前夜、最後の説教の中で「神は、わたしに山に登り、四方を見渡すことを命じ、地を与る神の約束を確信させた。」と言っています。更に、「主は、イスラエルの民が窮地に立たされると『山に登れ』と命じます。また、高い山であなたに十戒を与えた主、あなたの神は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。だから、あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならないと命じています。あなたはヤーウェの神以外の何者も依り頼んではならない。時代や状況は移り変わっても、ヤーウェの神の恵みは永遠に変わらない。ヤーウェの神のみを信頼して行く。そこにイスラエルの生きる道があることを示しました。イスラエルの民は四十数年苦しい旅を続けなければなりませんでした。ピスガの山の頂でモーセは、イスラエルの民が滅びないで、苦しい旅を続けることができたのは、ヤーウェの神の信仰と十戒と希望が与えられ、イスラエルの民が受け入れ、従ったからであることを確認した。」とルーサー・キングは語っています。
申命記3章には、この後、モーセは再び「山に登る」ことが命じられ、ピスガの山に登ったことが記されています。山頂に立ったモーセは「東を見渡せ」と命じられました。見渡すと、モーセが苦労してイスラエルの民を導き、旅してきた荒れ野が広がっています。更に「西を見渡せ」と命じられ、眺めると、ヨルダン川の向こう側に、神の約束した地が見えました。モーセはピスガ山で、苦難と試練に耐えることができたのは約束した神の言葉を信じてきたからである、と確認するのでした。しかし、更に厳しいヤーウェの神の言葉が臨みました。
申命記3章26節に「主はわたしに言われた。『もうよい。この事を二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう』」とあります。モーセは、「あなたは約束の地に立つことはできない。だから、自分の目でよく見ておくがよい。」と記されています。モーセにとって予想もしない言葉が臨みました。神の言葉はモーセにとって晴天霹靂、不条理な言葉でした。モーセの血の出るような苦労は報われませんでした。しかし、モーセはその不条理に、苦難と試練に打ち克つことができました。ヤーウェの神を信じ、委ねる信仰の結果です。モーセは、自分を越えた未来に希望を見出したのです。自分の願望が叶えられるよりも、神の御旨が実現することを祈りとし、願いとすることができたのです。
マタイ福音書17;1に「六日後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、」とあります。その前に、イエスは、弟子たちに、「エルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから苦しめを受けて殺され、三日目に復活する」と打ち明けられました。16:22に「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』。イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」とあります。弟子たちはイエスの十字架につまずき、イエスから離れて行きました。イエスの群れは崩壊の危機に直面しています。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞えました、と言います(17:5)。「わたしの心に適う者」とは、十字架の道に従い、十字架を負う者のことです。自分を犠牲にする道を歩む者のことです。神学者のバルトは「信仰は損をすることを受け入れることである」と言います。信仰の道はこの世的には損をする道です。しかし、この世的には損をしますが、信仰的には神の恵みを豊かに受けます。
マタイ福音書17:2に「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」とあります。イエスの変貌は十字架の道の栄光を現し、負う十字架が豊かに報われることを意味します。16:24に「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。』」とあります。神の肯定です。十字架の道を生きることに真の命があり、十字架の道を生きる人には希望と勇気とが与えられる。イエスの言葉を信じ受け入れていきましょう。