2025年4月13日「十字架の苦難と恵み」マタイ27:45-56 

棕櫚の主日で、受難週が始まります。与えられたテキストはマタイ福音書27章45-56節です。46節に、「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」とあります。この言葉はマタイ、マルコ福音書にありますが、ルカ、ヨハネ福音書にはありません。ルカ福音書には、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)、「はっきり、言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)という三つの言葉です。ヨハネ福音書には、「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」(ヨハネ19;26』。「見なさい。あながたの母です」(ヨハネ19:27)。「渇く」(ヨハネ19:28)、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)という四っの言葉です。マタイ、マルコでは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」がイエスの最期の言葉です。これら十字架上のイエスの言葉の中で、初代教会の信仰に大きな影響を与え、信仰により深い命を与えたのは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉だと思います。小説家の山本周五郎は、父親がクリスチャンだったそうで、子どものとき、父親に連れられて,近くの教会に通ったそうです。周五郎は聖書を良く読み、信仰について詳しかったそうです。周五郎は「『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。』という言葉が理解できれば、クリスチャンになる」と言ったそうです。文学評論家の木村久邇典さんは、「周五郎は、神の子イエスが、神に見捨てられたと嘆き、呟くところがイエスらしからぬと言っていた。理解に苦労されたのではないか。」と述べています。

この「見捨てる」は、聖書では何回か用いられています。マタイ26;56、マルコ14;50の「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」で、ローマ9;3の「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っていた。」で、イザヤ書53;3の「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」で用いられています。イエスは、イザヤ書の「苦難の僕」のように、弟子たちに、多くの人々に、同胞のイスラエルの人々に見捨てられ、十字架につけられました。そればかりでありません。さらに、深刻なのは。神に見捨てられたのです。この「神が見捨てる」は、イエスを苦しめ。絶望させました。

矛盾しますが、イエスを救い、支えたのは、神は決して見捨てることはないという信仰です。詩編27:10に「父母がわたしを見捨てようとも、主は必ず引き寄せてくださる。」とあります。「引き寄せる」は「捨てることはない」という意味です。詩編23;4には、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいる。」とあります。ヨハネ14;10には、「わたしはあなたを捨てて孤児とはしない」とあります。神は、イエスを決して見捨てることはないと約束しています。イエスが弟子たちに、多くの人々に、見捨てられても、滅び、絶望しなかったのは、神は決して見捨てることはないという信仰です。神は見捨てることはないという信仰は、イエスをして孤独と苦難と絶望に打ち勝たせました。その神がイエスを見捨てたというのです、

マタイ福音書27;46の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」の「なぜ」ですが。原文は、「イナ ティ」で、「イナ」は「~のために、目的、意味」を表す接続詞、「ティ」は疑問詞です。つまり、見捨てる理由や原因ではなく、意味と目的を尋ね問うていると解します。意訳すると、「わが神、わが神、わたしをお見捨になつた目的と意味はなんですか」となります。一方、「理由、原因」と解釈します。口語訳は「どうして」と解釈しています。ヨブが「義なる者がどうして苦難を負わなければならないのか」と、神に抗議したように、イエスも、「どうして、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と。神に理由と原因を問い、抗議していると解釈していると思います。

一方、「見捨てる理由と原因」を問題にするのではなく、勿論、抗議するのではありません。意味と目的が問題であるというのです。意訳すると、「わが神、わが神、わたしをお見捨てになった意味と目的はなにですか」となります。ヨハネ福音書9章に、「弟子たちがイエスに尋ねた。『この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」とあります。イエスの答えは。神の業がこの人に現れるためである』」とあります。この信仰的事実はイエスが見捨てられることにも妥当すると思います、神の御業、栄光を現わすために存在し、苦難を負い、生きるというのです。

作家のカン・サンジュンは「最大の苦難は、存在の意味と目的が見い出ないことです。また、苦しみの意味と目的が分かれば、どのような苦難にも耐え,打ち克つことができる。」と言われます。ヘブライ4:15に、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたと同様に試練に遭われたのです。」とあります。イエスは生きる目的と意味が解らない試練と苦難に遭われ、苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることができるのです。言い換えれば、イエスは生きる意味と目的を与えるために、苦難を、孤独を、絶望を経験されたのです。マタイ福音書のイエスは十字架上で、「わが神、わが神、なぜお見捨てになったのですか」と言って、命絶えました。「彼らの罪をお許しください」とか、「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」とか、「霊を御手に委ねます」とか、慰めになる言葉は記していません。十字架は挫折と敗北に見えます。しかし、イエスの死後、四つことが起こりました。一つは、マタイ27;45節に「さて 昼の十二時に、全地は暗くなり」とあります。「全地は暗くなる」は、芥川龍之介の「孤独地獄」にある死の恐怖。孤独。絶望の経験、全ての交わり、神との交わりが断ち切られることを意味します。二つ目は神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたことです。垂れ幕は、至聖所と会衆を区別するための隔てです。その隔てが引き裂かれた、神と人とは、何の妨げもなく、交わることができるのです。三つ目つは、異邦人のローマの百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と告白したことです。イエスは民族や性別や、資格に関係なく、信じる者なら誰でも、救われる道が開かれました。もう一つは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母が十字架の下に立っています。正に救いの出来事が起こったのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と約束しています。イエスの死は無駄な、意味のない死ではありません。同じように、わたしたちの死と苦難とは一つとして、無駄な無意味な死も苦しみもないと言われるのです。十字架上のイエスの言葉を信じ、従って行きましょう。