与えられたテキストはヨハネ福音書8;31-38です。31、32節に「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」とあります。「わたしの言葉にとどまる」の「とどまる」は、原文では、「とどまり続ける」で,継続を強調しています。30節に、「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」とあります。この「信じた」には、「一時、短期間、表面的」という語名詞がついています。31節には、「それ故に、それだから」という接続詞があります。意訳すると、「これらのことを語られたとき、多くのユダヤ人がイエスを一時信じた。それだから、イエスは、御自分を表面的に信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまり続け、本物の弟子になりなさい。』」と。ユダヤ人は、初めは熱心だが、直ぐに冷め、イエスから離れて行きました。そうでなく、わたしの言葉にとどまり続け本物の弟子になりなさい、と言われた。
ヨハネ福音書は、紀元100年頃に編集されました。教会にとって大きな出来事が起こりました。ドミティアヌスがローマ皇帝に即位し「自分は王であり、神である」と宣告し、皇帝礼拝を強制しました。教会とキリスト者には「主イエスの他、何もものをも神としてはならない」という律法と信仰があり、忠実に従い、皇帝礼拝を拒否しました。そのために厳しい処罰と迫害を受け、多くの人々が教会から離れ、教会は危機に直面しました。8章の「姦淫の女の物語」の背景には、皇帝礼拝、偶像礼拝に陥り、その罪が罰せられ、教会から離れていったが、皇帝礼拝、偶像礼拝の罪が赦され、教会に復帰する出来事があると思われます。ヨハネの教会には、多くの人々や弟子たちがイエスのから離れて行く、教会から、信から離れて行くという深刻な問題がありました。
6章1、14節に、「多くの人々は、イエスが五つのパンと二匹の魚で、5千人を給食するのを目撃すると、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り,ひとりでまた退かれた。」とあります。
46-48節には、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。」と、60、61節には、「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。『あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば、』」とあります。多くのユダヤ人や弟子たちはつまずき、イエスから離れいきました。66節には、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、イエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れて行きたいのか』と言われました」とあります。十二人も イエスと共に歩むことを避け、共に歩む者がなくなる。イエスにとって大変厳しい状況になりました。
そのような状況の中で、イエスは「わたしの言葉にとどまるならば。あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」が語られたのです。この「とどまる」は、原文では、「とどまり続ける」です。また、「場所をあける」という意味があります。。ルカ1:7に「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」とあります。「イエスを受け入れる場所がない、人間の心の中には、沢山の思いが入っています。イエスを受け入れるには、心の場所をあけなければなりません。「心の場所をあけ、イエスを受け入れる」がイエスの「言葉にとどまる」の意味です。榎本保郎先生が、アシュラム運動を起こされました。「『朝の15分、静聴の時間』、聖書に聴いて、祈りをささげる運動です。信仰は、瞬間、点のようなもので、瞬間、点が連続して線になる。長く続くことが肝要である。時間をあけて、イエスを受け入れる。」と言っています。
ヨハネ福音書は、ギリシャ人が良く用いる「真理・アレセイアー」という言葉を用いて、イエスの福音を伝えています。「真理」は、「主イエス」のことで、意訳すれば、「主イエスはあなたたちを自由にする」となります。「自由にする・アリュセラオー」は、「必ず」という副詞をつけ、イエスの強い意思を表します、36節に、「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」とあります。「自由になる」の英語訳「will mike you free、自由にする」です。ヤッハウェの神が、初めてモーセに自分を名乗り出たとき、「モーセ(引き出す)をモーセにする神である、イスラエルをイスラエルにする神である」と言っています。イエスは真理である、あなたたちを必ず自由にするというのです。
ガラテヤ5;1で、パウロは「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい、奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」と言っています。「しっかりする」は、イザヤの「信じなければ、立つことができない」と言われるように、自分の力によってではなく、自由を与えてくださったキリストを信じる信仰によって立つ、言い換えれば、信仰、つまり、自由と責任をもって生きることを意味します。「奴隷の軛二度とつながれてはなりません」の「奴隷の軛」は「律法主義」のことです。「罰せられるから、裁かれるから」、行わないではなく、逆に、「人から誉められるから、称賛を得るから」行うでもない、というのです。
ガラテヤ1;10に、「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、なんとかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお、人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではああせん。」とありあす。パウロは[全く自由な中から、神に喜ばれるをから選ぶ。神の御旨を選んでいく」と言うのです。
ヴクタ-・フランクルの「夜と霧」に、強制収容所の中の出来事が記されています。病気で、起きることができず、死を待つだけの人が出た。皆が朝、強制労働に出て行った後、病人の枕元に、自分が食べなければ、生きていけないパンが置いてある。極限状況の中で、生きていくために無くてはならないパンを病人の枕元に置く。貴いことは、誰かから強制され、命令され、罰せられ、裁かれるから、逆に、誉められ、称賛されるからではありません。全く自由です。その自由の中で、神の御旨を選んでいく。イエスは、選びの自由を与えるのです。イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にる。」と約束されています。