与えられたテキストはマタイ福音書10;40-11;1です。42節に、「はっきり言っておく、わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」とあります。「わたしの弟子だという理由で」の「理由」は「明らかにする、告白する」という意味です。「小さな者」は、原文は受動態で、「小さくされた者」です。意訳すると、「はっきり言っておく、わたしの弟子であることを告白したために、小さくされた者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」となります。マタイ福音書時代のイエスの弟子たちをはじめ、ユダヤの人々は、ローマ皇帝の支配下に置かれ、圧政と重圧に苦しんでいました。AD73年には、ユダヤの人々は独立を求め、マサダの要塞に立ち籠もり、ユダヤ戦争を起こしました。ユダヤは玉砕を選び、敗れ、エルサレも神殿も宮殿も崩壊しました。イエスと弟子たち、教会は玉砕を選ばず、壊滅は免れました.しかし,大きな犠牲と重荷を負いました。因みに、キリスト教は、AD313年コンティアンティヌス皇帝のミラノ勅令によって、公認されました。キリスト教に対する迫害は禁止され、信仰の自由が認められました。マタイの教会時代、AD100年頃に、イエスの弟子になることは、苦難と試練を負い、迫害され、小さい者にさされることを意味しました。イエスは、何かの事情で小さくされた者に寄り添い、受け入れ、忍耐と希望を与たえました。
イギリス文学者、東京大学名誉教授、無教会の信徒であった斉藤勇さんは、「キリスト者であるために損をしているという思いをいつも持っていた。キリスト者でないほうが、学者として、大学の教授として、やり易かったと思う。なにか発言すると、『あなたはクリスチャンだから、そんなことを言うが、日本では通用しないよ、非常識だ。』と厳しい批判を受けた。直接的な迫害や弾圧ではありませんが、キリストに従って生きようとすれば、試練苦難は避けられない。この世の誉れではなく、終末に、善き忠実な僕よと祝福される信仰で支えられてきた。」と述べていました。
11:1に、「イエスは12人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。」とあります。この「指図」は、「慰め、励まし」という意味です。この「弟子たち」は、原文では、「弟子たち一人ひとり」となっています。イエスは「信仰を告白したために小さくされ者一人一人に、慰めと励ましを与え終わると、」となります
マタイ25;37-40に、「『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ,のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり,牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」とあります。この「最も小さい者の一人」は「最も小さくされた者の一人」という意味です。イエスは何かの事情で小さくされた者の一人一人を大切にし、慰めを与えられるられる。
10章5節には「イエスはこの12人を派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。』」とあります。「イスラエルの人々」は、かつては、エジプトの奴隷、バビロニア捕囚、ローマ帝国の皇帝礼拝、マサダの玉砕の苦難を負わされました。正に失われた羊、小さくされたれた者です。イエスは、12人を派遣するとき、「何かの事情で、苦難を負い、虚無と絶望に陥っている、失われた羊、小さくされた人のところに行きなさい。」と命じています。
42節には、「はっきり言っておく。わたしの弟子だと言う理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」とあります。この「必ずその報いを受ける」の「報い」は、「働き甲斐、生き甲斐、生きる意味、永遠の命」を意味します。原文には「彼によって」という言葉があります。「彼」は、イエスの弟子のひとり、小さくされた者、無きに等しい者です。その「彼」によって、生きる意味、生き甲斐が与えられる、というのです。逆説の真理です。小さくされた者、無きに等しい者が、生きる目的と生きる意味を与えると言うのです。イエスは小さくされた者㋾受け入れ愛されます。
知人の妻は、難病で40年間も寝たっきりでした。知人は短歌の創作者、病める妻を歌った歌人でした。「40年われに仕へ来て病み臥せる老妻に今われは仕ふる」「湯たんぽの湯を入れ替えて病む妻の枯れ木のごとき足をそろへつ」。彼は、病む妻が十字架のイエスのように見えると言っておられました。彼は妻を亡くされてから、短歌の創作ができなくなりました。彼の寝っきりの妻、イエスの愛する小さくされた者は、彼の生きる力、生きる意味、生きる希望であった事実を示しています。
イザヤ章43;4に、「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」とあります。イスラエルの民は、神に背むき、捨てたために、バビロン捕囚の苦難と絶望を経験しました。イザヤ41;14に「恐れるな、虫けらのようなヤコブよ」とあります。彼らは自己を卑下し、「虫けら」と言っていました。その彼らに、神は、「わたしの目には、価高く、貴く、あなたを愛し、掛け替えのない存在である」と言うのです。イエスも弟子たちに、「苦難や試練のために小さくされた者であるけれど、他人に生きる意味と目的と希望を与える」と言って、励まし、勇気づけています。柏木哲夫先生は、「人間について」という文章で、「わたしたちは、他人にどのように評価されているかを絶えず気にしている存在だ。他人の目から自由になれる人はいないのではないか。人が自分についていろいろと言われる言葉を聞くと、心穏やかではいられない。つまらない褒め言葉にも喜び、根拠のない、中傷に腹を立てる。一喜一憂してしまう。重んじられても軽んじられても、注目されても無視されても、その言葉に翻弄される。それが人間だ。しかし、大切なことは、イエスがどう見てくれているかではないか。主イエスは、どのような存在であれ、値打ちを持ち、掛け替えのない存在として見ていてくださる。大事なことは信じることである。わたしの目には値高く、貴い、と言われる言葉を信じて、主に生かされていることを信じて、遣わされていきたいと思います。