2025年6月1日  「共に歩まれる主」 ルカ24:13-35

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与えられたテキストはルカ福音書24:13-35です。元になったのは、マルコ福音書16:12、13の「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へと歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」という記事です。著者ルカは、この記事に関する伝承を集め、ルカ福音書特有の美しい記事にし、キリストの福音を伝えています。文学や絵画に影響を与え、ルオーの「夕暮れ」、レンブラントの「エマオのキリスト」「エマオの途上」、カラヴァジョオの「エマオの晩餐」などの絵画があります。

13節に「丁度この朝、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村に向かって歩いていた。」とあります。この「二人の弟子」が、具体的にだれであるか分かりません。ペトロやヤコブのような12弟子でないことは確かです。18節に、そのうちの一人は方クレオパであるという説明があります。しかし、クレオパがどういう人物であるかは記していません。原文は「十二弟子」で用いられている「マセテース」は用いていません。十二弟子ではないと思います。彼ら二人は、ルカ24;25の「物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者」、ルカ24:11の「主の復活がたわ言と馬鹿にしている人々」、使徒言行録4:13の「無学な普通の人」と言われているような人物だったというのです。復活のイエスは。心が鈍く、無学で、イエスの復活を信じることのできない人々に、自ら近づき、寄り添い、救い、希望を与える、とルカ福音書記者は強調します。5;31には「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とあります。福音書記者ルカは、復活の主は、ただの人、無名な人、立ち止まっている人、絶望している人に近づき、共に歩んでくださることを強調しています。

 24;13に「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」とあります。「エマオ」は「田舎、故郷」を意味します。言い換えれば、人が目指して進む「目的、目標」」を意味します。つまり、「エマオ」は具体的な地理的場所ではなく、信仰的、象徴的な意味をもっています。ヘブライ11;14に、「わたしたちはこの地上では旅人、魂の故郷を目指す旅人である」とあります。「エマオ」は、「わたしたちの目指す魂の故郷」を意味します。フィリピ3;13に、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。言い換えれば、パウロは「目標」という言葉で、ルカ福音書の「エマオ」を言い表しています。また、「目標」は「テロス」と言って、「終わり。究極的な、天的な目的」を意味します。わたしたちが目指す、究極的な目的です。ルカ福音書は、それを「エマオ」で表現していると思います。

 24;15、16に「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」とあります。この「目が遮られた」の原語は「クラテオー」で、「後ろ(過去)に固着する、過去にこだわる」という意味です。つまり、彼らが過去にこだわっていたために、復活の主、イエスに出会っていることが分らなかったというのです。パウロはフィリピ3;13、14で、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と言っています。後ろを振り向かないで、過去に固着しないで、過ぎたことに拘らないで、目標を目指してひたすら走る。顕現のキリストは、過去にとらわれている者の心を、前方に、天の栄光に向けると言います。

24:30に「イエスがパンを取り、裂いて、弟子たちに渡すと、二人の目が開け、イエスだと分かった。」とあります。この「目が開く」は「閉じた心を開く」という意味です。使徒言行録9;18に、「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。」とあります。パウロの回心の物語です。パウロがダマスコの教会とキリスト者を迫害し、滅ぼすことを命じられ、ダマスコへ向かう、その途上で、復活の主が顕現し、出会い、激しく打たれ、見えなくなり、失望落胆し、絶望しました。不思議な出来事ですが、起こります。神は絶望するパウロのところに、アナニヤが遣わします。彼は、パウロの上に手を置いて、「主イエスはあなたが元どおり目が見えるようになると約束されました」と祈りました。すると、パウロの目からうろこのようなものが落ちたと言うのです。パウロの回心、生まれ変わり、新生です。;30の「目が開く」は、二人の弟子の新生、生まれかわりです。つまり、復活の主の顕現は二人の弟子の新生、新しい人生が始まりを意味します。

ボンヘッファーというドイツの牧師がおりました。彼の死後、彼の信仰は日本の神学に大きな影響を与えました。彼は、終戦の一年前の1944年4月8日のイースターに絞首刑で処刑されました。処刑される直前、ヨハネ福音書12章24節に、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」を読み、知人のロシヤのココーリンに、「あなたは共産主義者で唯物論者ですから、わたしの命は終わりだと思うかも知れないが、わたしの死は新しい命の始まりです」と言い残されました。一粒の麦の実は、地に落ち、朽ち果てます。しかし、朽ち果てた種から、新しい芽が出て、生え、実をならせる。主イエスの復活は、死は新しい命(ゾーエー)の始まりであることを明らかにしてくれました。死の向こうに永遠の命、希望がある。どんな所でも、どんな時にも、どのような状況でも神の希望がある事実を啓示してくださいました。その信仰的事実を信じ、受け入れていきましょう。