2025年6月22日 「一粒の麦として」 ヨハネ12:20-28 

与えられたテキストはヨハネ福音書12:20-28です。24節に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」というイエスの言葉があります。エルサレムは過越祭の前で、多くの巡礼者で混雑していました。その中に何人かのギリシャ人がいました。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのところに来て、「先生に、お目にかかりたいので、取り次いで欲しい」と頼みました。そこで、フィリポはアンデレに話し、アンデレとフィリポは「ギリシャ人がお会いしたい」と言っていると、イエスに告げました。ギリシャは哲学の都アテネを有し、哲学が発展し。さらに、アレキサンダー大王の世界制覇から生まれたヘレニズム文化、芸術、文学、哲学、知恵が隆盛していました。ギリシャ人は、「キリスト教は愚かな宗教」と決めつけ、非常識と非難し、軽蔑していました。コリント⒈1:18には、「十字架の言葉は、滅んでいく者には愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』」とあります。パウロのことばです。また、コリント⒈1;22には、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝がえています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、わたしたちには神の力です。」とあります。パウロのキリストの十字架の福音の弁明です。この「愚か」は「無知、愚鈍、無意味」という意味です。ギリシャ人は、イエスの十字架の死を愚か、愚鈍、意味のない、無駄なことと見ていると言うのです。ギリシャ人が求めたことは、不死、不滅の命です。

:27節に「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ,御名の栄光を現わしてください。」とあります。「心が騒ぐ」は、「恐れてもだえる」という意味です。イエスは、十字架の道を選ぶ決断を迫られ、恐れもだえたというのです。「父よ、わたしをこの時から救ってください。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」とあります。 ルカ22;42には「父よ、御心ならこの杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように、苦しみもだえ、汗が血の滴るように落ち、祈られた。」とあります。恐れもだえているイエスが、十字架のために来たと心に決め、決断したというのです。

イエスが生まれ育ったガリラヤのナザレは、「そこからは立派な人間は出ない、異邦人の地」と、軽蔑されていた辺境の地です。ナザレ人は麦の種まきや収穫の様子は見て育ちました。麦の種が地に蒔かれて、地中で、朽ち果て、元の形を失います。すると、そこから新しい生命が発芽し、成長し、多くの豊かな実を結びます。しかし、麦が蒔かれないで、袋の中に置かれたままだと、一粒の麦で終わってしまう。その事実をイエスは知っていました。;24に、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」とあります。イエスは一粒の麦の事実を信じ、十字架の道を決断したのです。マルコ2:17には、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とあります。多くの人の贖いとして自分の命を献げるために来たと言われるように、イエスは死の意味を、同時に、弟子たちの死の意味を明らかにされました。取るに足らない小さい者の死が豊かな実を結ぶというのです。イエスは一人の死も無意味な死はない。一つの死をも無駄にしてはならないと言われるのです。

:25に、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とあります。「自分の命を愛する者」の「愛する」は、「好き、感情的な愛、人間の本能的な、利己的な愛・エロス」を意味します。利己的で、自己中心な愛・エロス、自分だけを愛する愛は、真の命を失う。「失う」は「破滅する、滅びる、悲惨を招く、衰退する」という意味です。自己中心、利己愛は、アガペ―の愛を破壊し、生きる喜び、意味を失い、破滅すると言うのです。

;25に「自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とあります。「自分の命を憎む」の「憎む」は、「斥ける、選ばない」という意味です。「自分の命」は、「自然的な命、利己的な生命」という意味です。意訳すると、「自然的命、利己的愛を斥け、選ばない人は、それを保って永遠の命に至る。」となります。平衡記事のマルコ14;36には、「アッパ、父よ。あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心が適うことが行われますように」とあります。イエスが逮捕される直前の祈りです。自分の願うことではなく、神の御心、神の道を第一義にしています。「まず神の国と神の義を求めなさい。」という言葉が本質です。神のみ旨、神の御心を第一義に選び、決断して生きて行く、結果として、永遠の命に至る、真の救い、平安、死を超える希望に生きると言うのです。

北海道家庭学校を創設された留岡幸助物語、「大地の詩」という映画があります。留岡幸助は備中国高梁に生まれ、明治15年(18歳)宣教師から洗礼を受け、同志社英語学校の神学科に進み、新島襄に指導を受け、卒業し、福知山の丹波第1基督教会に赴任します。金森通倫牧師から監獄の教誨師になることを依頼され、北海道の網走や倶知安の監獄で働かれました。留岡幸助は、イザヤ書43:4の「わたしの目にはあなたは価高く、貴い、わたしにとって必要でない人は一人もいない。等しく人権が守られている」という言葉に立って、囚人を導きました。犯罪の原因は、囚人の生育歴にあると気づかされ、少年の更生には家庭愛が必要だと言って、東京の巣鴨、北海道の遠軽に家庭学校を創設しました。彼の志は、当時の社会には受け入れられず、苦難と試練の連続でした。夫人は苦労が重なり、34歳で亡くなられました。彼の支えは。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」というイエスの言葉です。「だが死ねば多くの実を結ぶ」という約束を信じて、子どもたちに、神に身を献げ、イエスに身を重ねて生きました。「一粒の麦」として、自分の人生を捉え直し、自分の存在の意味、死の意味を解釈しています。イエスに繋がれば、必ず救われ、報われる、無駄な死はない、新しい命が生まれる事実を明らかにされました。