2025年7月13日 「豊かに実を結ぶ」 ヨハネ15:1-15  イザヤ5:1-6

与えられたテキストはヨハネ福音書15;1-15です。イエスが、十字架につけられる前に、世に残していく弟子たちの足を洗い、信仰の本質を語られました。この「ぶどうの木のたとえ」も、その一つでです。旧約聖書のイザヤ書の影響を受けています。イザヤ5章の「ぶどう畑の歌」に、「わたしの愛する者は肥沃な丘に、ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ、わたしとぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかかせ、石垣を崩し、踏み荒らせるに任せ、わたしはこれを見捨てる。」とあります。預言者イザヤは主なる神の信仰から離れて、勝手気ままに振る舞う、不信仰なイスラエルの民を、酸っぱい実を結ぶ木に喩えています。イザヤと第二イザヤの「ぶどう畑の歌」は、イエスのぶどうの木の譬話に影響を与えていると思います。しかし、確かに影響を受けていますが、イエスのぶどうの木は豊かに実を結ぶぶどうの木です。ここに大きな違いがあります。イエスは、御自身をぶどうの幹に、弟子たちを枝に喩え、枝が幹に繋がっていれば、豊かに実を結ぶ。そこにイエスの言葉の特有さ新しさ、豊かさがあります。 

:2節に、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをする。」と。:5節に、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあります、この「豊かに実を結ぶ」の「豊かに」は、ぶどうの実の多さや房の大きさではなく、「重量、甘さ」を意味します。つまり、豊穣さ、内実の豊かさです。イエスに繋がり、結びついて生きることから与えられる豊かさ、恵み、感謝です。

イエスの復活物語では、弟子たちは、イエスが捕らえられ、十字架に付けられると、イエスを見捨て、ガリラヤに逃れ、元の漁師に戻っていました。ある日、ペトロの「漁に出る」という言葉に誘われて、漁に出ました。しかし、夜通し働いても、雑魚一匹取れず、失望落胆し、岸辺に帰ってきました。すると、不思議なことですが、イエスが岸辺に立っていたのです。イエスは、「もう一度舟を出して、網を打ちなさい」と言われました。弟子たちは、駄目だと諦めながら、舟を出し、網を打ちました。不思議なことですが、網を引き上げられないほど、魚がかかったのです。彼らは、その網の重さを手に、腕に足に、胸に、身体全体に感じたというのです。その後、その手応え、達成感、報われた喜び、充実感は、イエスが共に生きている。共にいる信仰のなかで体験しました。

三浦綾子さんは、「信仰は、自分の人生が実り多きことを確信することです。人生は、自分の思い通りにならないことばかり、矛盾と不条理に満ちています。しかし、それでもって、人生なんてこんなものだと見限ったり、割り切ったりしないで、豊かな実を結ぶことを信じて生きることです。」と言われます。イエスが弟子たちに繰り返して言われることは、厳しい現実であっても、不条理な人生であっても、手応え、充実感を持って生きる道があると信じることであると思います。高木慶子さんは、「人生の最期で、『ありがとう』『ごめんなさい』という二つの言葉を言えるかどうか。それは亡くなっていく人にも、残された者にも、慰めと癒しと希望を与えます。死を目前にすると、わたしは、この人生に意味があったのかという根源的な問いの前に立たされます。その問いに、最終的にこれで良かったと答え得ることが大事だと思う。イエスが『わたしにつがっているならば、豊かに実を結ぶ』と言われるのは、人生の充実感、良かったという肯定が与えられることを意味している」と述べています。

;5節に「『人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』」とあります。この「つながる」は、「とどまる、住む、居場所がある」と意味です。「remain in」。あなたがイエスの中に、イエスがあなたの中に、とどまる、住むという意味です。「豊かな実を結ぶ」は、「結びなさい、結ばなければならない」という命令形ではなく、事実、約束です。必ず実を結ぶという意味です。

 ドイツの牧師ゴルヴィツアーは戦争中シベリアに抑留されました。シベリアへ送られた者は生きて帰ることはできないと言われるほど、過酷な収容所でした。寒さと飢えに苦しめられ、多くの人々は諦め、絶望し、死に至る病に陥りました。そういう極限状況の中で、ゴルヴィツアーは、「わたしにつながっていれば、豊かに実を結ぶ」という御言葉を聴くのでした。そのことを「真夜中に突然、朝の光が射してきたような思いを与えられた」と言っています。「この『豊かに実を結ぶ』という言葉を取り出して、つなぎ合わせてみると、暗い穴から明るい光の中へ掛けられた梯子を一段一段上っていくような感じを受けた。死と暗黒の中で、実を結ぶことができると思えて来た。わずかな小さい光が灯った。状況は少しも変わっていない。故郷に帰ることはできないと諦めた。体力も気力も萎えてきている。しかし、その状況が、豊かに実を結ぶことの妨げにはならない。その事実に気付かされた。このイエスの言葉を支えにすると、生き延びることができた。」と述べています。

イエスは「わたしにつながっていなさい」と言いますが、同時に、「わたしもあなたがたにつながっている」と言われます。イエスご自身がつながってくださる。イエスから離すことは決してありません。ゴルビッツアーは、「自分の歩みを振り返って、自分は何度も挫折し失敗をした。自分の人生は、人間的な目で見れば、祝福されていたととても言えない。何回も病気をし、子供を失い。妻を苦しめた。しかし、イエスは、そういうわたしに、『あなたはわたしの枝である。わたしがつながっているから、豊かに実を結ぶ。』と言ってくださる」。:11節に「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」とあります。イエスは、あなたがたの内なる喜びが、コップの水が溢れ出るように、満ち溢れる。すべてを包み込んでしまう喜びで満たされる。豊かな実を結ぶことを祈ってくださいます。